::枡野浩一 40000字インタビュー  穂村弘を遠くはなれて
 このインタビューは2002年1月29日に枡野さんのお住まいのある高円寺の、ある喫茶店にて行われました。早稲田短歌会からの参加者は橋元(司会)、秋元、五島、山崎、宍戸。およそ3時間にわたるインタビューでした。
     詩と短歌
 橋元:もともと詩をつくっていらっしゃったということですが、詩の数っていうのはそんなにはつくらなかったのですか?
 枡野:詩集『ガムテープで風邪が治る』(新風舎)に収録した作品のほかには、三つくらいかな。理由があって詩集にわざと載せなかったのが一つ二つあって。あと、「文學界」って雑誌で熱心な編集者に頼まれて、それ用に書いたのが一編あるくらいです。高校時代とかにふざけ半分で書いた詩みたいなのは山ほどありますけど、真剣に、自分でも「詩みたいだなあ」と思いながら書いてたのはこれ(『ガムテープで風邪が治る』)くらいですね。これにしても、あんまり「詩」じゃないでしょ、読むと。
 橋元:現代詩っていうのがどういうものか、あんまり知らないんですけど。リズムがいいっていうのは思いました。
 枡野:なんかね、作者としては「詩じゃないのに『現代詩手帖』に載ってる」っていうのが可笑しかったのかな。自分は基本的に散文の書き手だって思ってるんですけどね。私の短歌にしても、この詩集にしても、「散文なのに図らずも生じてしまうポエジー」みたいなものに惹かれてるんだと思いますね。
 橋元:詩のほうがかえって制約が大きいということはありませんか?
 枡野:うん、それはなぜかって、かつてコラムに書いたことがあるんですけど。詩だと枠組みがないがゆえに、どう書いても自由なわけでしょ。だから、かえって銀色夏生とか三代目魚武濱田成夫みたいなのを現代詩の世界の人は無視しがちなんですよ。存在しないものとして扱っちゃうのね。だけど短歌だと、俵万智みたいなものから岡井隆みたいなものまで、一応は同列に扱われるじゃない。それは、五七五七七という枠組みがあるせいだよね。詩の場合だと、その作品が「現代詩手帖」に載るか載らないかとか、「詩とメルヘン」と「現代詩手帖」と「MY詩集」はどういう位置関係にあるのかとか、わかんないでしょ。ただでさえ詩としてレベル高いものをつくるのは難しいし、いったいだれが優れた詩かどうかを判断するのか? って感じになっちゃう。「枠組みがなくて自由なこと」、それがもう、詩というものが孤立無援なアートになってしまうことの理由のひとつだと思うし、銀色夏生や三代目魚武濱田成夫がぽつりぽつりと点在してるのは、そのせいもあると思いますね。何か突出したキャラクターがないと商業的には流通しないんだと思います。それは一概に悪いことだと思ってませんけども。
 で、私の詩の場合も、こういう形の本にしないと流通しなかった……ということが重要だと思ってて。『ガムテープで風邪が治る』の旧版を出したときに、詩人の荒川洋治が、「現代詩手帖」のアンケートで今年一年で印象に残った本として書名を挙げてくれて、最後のところに「(編集)」って書いてあった。つまり、詩集の中身は認めないけど、編集の出来は認める、ってことだと思うんだけど。
     水戸浩一と枡野浩一
 旧版と愛蔵版はまあ、中身は同じなんですけど、旧版では「水戸浩一=著、枡野浩一=責任編集」だったのを、愛蔵版では「枡野浩一=著」に変えました。この詩集に仕掛けたフィクションを、はっきりフィクションだと宣言してしまうことにしたんです。この詩集には水戸浩一年譜というのがついているんですけど、もちろん詩人の水戸浩一くんは、枡野浩一の別名です。水戸浩一という、枡野浩一とは別の人格を想定して、架空の年譜をつくったのね。「本名、平井真」とか書いたり。誕生日は四月二日にしたりとか。なんで四月二日にしたかというと、四月一日にすると学年が変わっちゃうから。で、水戸浩一は誕生日の前日である四月一日に「ガムテープで口をふさいだ状態で発見される」んだけど、まあ、四月一日エイプリルフールだから……。けっして「死んだ」とは書いてないんですよ、「発見された」だけなんです。そのへんね、微妙に工夫したんですよ。
 橋元:詩は短歌ほどには身近ではないという感覚ですか。授業中にぽんぽんできたり、冗談みたいなのはできるのかもしれませんが、やっぱり、そういうものではないんですか?
 枡野:うーん、もともと詩を書いたのだって、たまたまだったから。だってこれ、「しあわせ教」っていう架空の宗教のちらしをつくって、予備校時代に配ってたんですよ。今思うと、「マスノ短歌教」のルーツはここですね。昔からやることは変わってないという。で、私が詩に書いたことって、みんな実際にあったことだから。「しあわせ教」のちらしは、友達が面白がってくれなかったんで、しょうがないから改行して詩にしちゃえと思って。で、詩にしたものを「現代詩手帖」に送ったら掲載されて。その掲載されたってことをまた詩に書いて送ったら掲載されて。投稿して載らなかった詩って、当時ひとつもなかったんです。だから、掲載作品イコール全作品ね。そんな感じだったんで、いろんなタイミングが合っただけなんだと思いますね。ねじめ正一さんがそのとき投稿欄の選者だったとかね。
 あとやっぱり、いったん大学行ったのにやめてわざわざ予備校生になっちゃったから、ほんと言うと、俺の人生どうしようって途方に暮れてたんですよ。やりたいこと全然なかったし。結局そのあと私は大学進学をやめてしまって、バイトで働き始めて、失業したり広告会社に就職したり、またフリーになったりしながら、今に至るという……大変いいかげんな人生なんですけど。
     口語と文語
 橋元:またお話が少し変わるんですけど、枡野さんの短歌観と言いますか、短歌についてのお考えというのは入門書である『かんたん短歌の作り方(マスノ短歌教を信じますの?)』(筑摩書房)の教義を見ればだいたいそれが当てはまるかと思うのですが、それによると、「口語で散文に近く、普通の文章に見せかけてしかしそれよりちょっぴり空気の薄い緊張感を持たせるのが勝負どころである」と。
 枡野:あ、そんな感じでしたかね? 自分が書いたこと、わりと忘れてますけど。
 橋元:ざっとまとめると、もともとある短歌短歌めいたもの、短歌的叙情によりかかって現実逃避を行うのではなくて、ちゃんと今自分が持っているフィーリング、つかっている言葉で勝負しろ! と――
 枡野:それはでもねえ、自分の短歌って、ルーツが趣味でやってた「替え歌」で……。そこから始まってるんで、文語とかつかいようがなかったんですよね。先にとにかく短歌がたくさん生まれてしまって、そのあとに短歌の新人賞に応募してみて、歌人の先生がたに言われたことが、まったく腑に落ちなかったんで。そういう価値観へ反発するみたいにして書いたのが、この本なんですよね。今思うと、そこまで反発しなくてもっていう気がしてしまって、われながら痛ましい部分も多いですけどね。短歌なんかに縁がない一般の読者に向けて書いた本だから、まあいいんですけど、短歌界の人がもうちょっとね、反論なり批判なり、リアクションしてくれればよかったのにと思ったりもして。想像以上に無視されてしまいましたね。
 橋元:たとえば正岡豊さんとか、歌をつくっている人で枡野さんとやりとりのある方からの感想はどうでしょう?
 枡野:正岡豊さんは、だって「歌壇の人」じゃないから。たとえば黒瀬珂瀾さんがメールマガジンでこの本の名前を出さずに、短歌で口語しかつかわないというのは間違っているという意見をおっしゃっていたんだけど、明らかに私の本をふまえて書いてることがわかる文章だった。どうせならきちんと枡野浩一の名前を出して批判してくれるんだったら、すごく嬉しかったと思うんだよね、黒瀬珂瀾みたいな実力ある歌人が。あ、黒瀬さんのホームページに行って、私の気持ちはご本人にもお伝えしましたけどね。……だけど、正面きっての批判なり反論なりが私の目に入ってこなかったから、けっこうつまんなかったかなあ。穂村弘の『短歌という爆弾』(小学館)はウケてたのに……って。短歌界を「仮想敵」にしすぎていたかもしれないなって、その点は素直に反省しています。
     『短爆』と『かん短』
 橋元:『短歌という爆弾』、『短爆』と略しますけど、『短爆』の価値観というかそういうものとの違和は――
 枡野:うーん……。私はもともと穂村弘のファンなので。今はなんだか、だれも穂村弘を批判しない空気があるような気がしていて。だから私のようなファンがあえて言わなくては、とかいう大きなお世話な気持ちで、自分の「役割」と思って、穂村弘の悪口っぽいことをつい言ったり書いたりしちゃうんですよ。自分は穂村弘とちがうことをやっていこうと決めているので、そのちがいを常に自覚しなきゃと思っているんだけど、穂村弘は穂村弘で、ある徹底した態度を貫いていると思うので。「自分の眼中にある歌人」という意味では、あれだけ気になる歌人はいないというかねえ。むしろ私は短歌界全体を見たときに、興味ある短歌をつくる人がほんとに少ないので、残念に思っているというか。穂村弘は読んで面白いかつまらないかっていうと、私にとっては面白いですね。
『短歌という爆弾』はもっと語られるべき本だと思うんですけど、私、あの本は短歌入門書としては駄目だと思っていて、サブタイトルが詐欺ですよね。〈今すぐ歌人になりたいあなたのために〉って……。あの本を読んだって、今すぐ歌人には絶対なれないよ。こっち(『かんたん短歌の作り方』)のほうが、初心者には徹底して親切だと思う。あれはだから、編集者の作戦勝ちで、短歌入門書のスタイルをとってるけど、全然入門書じゃないよね。短歌論集でしょ?
 穂村弘の短歌観を知る本としてはたいへん面白かったんですけど、前半の入門書の部分が非常にとっつきにくくて、最初読んだときは退屈で、ひどい本だと思った。歌集を出す手引きのコーナーなんかも、著者がほんとは興味なくて書きたくないのに、嫌々書いてるような感じがするし……。あと、短歌同人誌「かばん」に載った早坂類論の中にすごく説得力あるフレーズがあったのに、本に収録するときそのフレーズを削ってしまったのも、あーあもったいないと思ったり。だけど、とにかく穂村弘にしか書けない、面白い本だということは大前提でね。そういう細かいところに、不満があったんですけど。
 橋元:評価云々というのは置いておくとして、『短爆』では「愛の希求の絶対性」ということをおっしゃってますよね。そういった『短爆』の価値観に対して、是非ではなく、たとえば実際に感じる差異だとか違和というものはありますか?
 枡野:「愛の希求」、穂村さん、それしか言わないものね。愛の希求の絶対性……とても大切なことだと思うし、ひとつの切り口をずっと持ちつづけることは大切だから、全然オッケーなんですけどね。なにもかも、それで斬ってくれればいいとは思うんですけど。
 ただ、彼が私の『ますの。』(実業之日本社)という短歌集について好意的に論じてくれたことがあったんですね、「図書新聞」かなんかで。その中で、この人は何をおっしゃってるんだろうって思った部分があって。枡野浩一の短歌は素直で無防備すぎる、この書き方では枡野の本来の敵であるはずの人にまで共感されてしまいそうだ、みたいなことが書いてあって……。あ、これは私の解釈だから誤解があるかもしれないので、穂村弘の原文をいつか見てほしいですね。今度出る穂村弘エッセイ集に収録されるかどうかはわからないけど。私が読んでほしい部分に限って、わざわざ削ってあるかもしれませんけど……(枡野注/小学館から出た第一エッセイ集『世界音痴』には、詩歌に関するエッセイは収録されなかった)。まあとにかく彼の主張は、つまり、枡野浩一の書き方だと敵にも届いてしまうってことだったのかな。
 私は、どんな文章も、敵に読ませたいと思って書いているので。自分と接点がない人にこそ読んでほしいと思ってるんですよね。もちろんそれは無理なことであって、結果的には自分の短歌を読む人なんて自分の味方ばかりだし、枡野浩一を本当に嫌いな人は読まないし読んでもわからないみたいなんだけど。気持ちの上ではとても遠い人に投げかけているつもりだから、敵にこそ読んで欲しいというのが私のスタンス。穂村弘には「敵になんかわかられたくない」という気持ちがあるんだと思うのね 。「敵」なんて言うと抽象的だけど、たぶん彼が大切に思っている「あるべき世界」と、「世間」があるとしたときに、「世間」にいる、自分が軽蔑しているような人には理解されたくないっていうプライドがあるんだと思うんですね。私にはその意識がないんですよ。
 むしろ、そういう嫌いな人たちにこそ届かなきゃいけないし、嫌いな人とつながるために書いてると思ってるから。しかも、最終的には嫌いな人を愛することができないといけないと思ってて……まあ無理なんですけどね、きっと。でも気持ちとしてはそうじゃなきゃいけないというのが自分の表現活動だから、それはもう、まるで相容れないものである気がしますね。穂村弘の、世間の価値みたいなものを拒否しつづけているようなところって、私には違和感がある。たぶん、ああだからこそ穂村弘はチャーミングなんだろうけど。
 橋元:たとえば穂村さんの場合は古語をつかうわけでもないし、言葉としては万人がわかるものですが、しかし、読者はある程度限定されるといいますか、全員がわかるわけではない。
 枡野:まあ「程度問題」で、枡野浩一の短歌だって、わからない人には全然わからないでしょうけど。穂村弘の本を読んで面白がる人は、みんな穂村弘の味方だという気がします。でもね、思うんだけど、穂村弘の味方って……。ある精神の若さに響く作品だからそれでいいんだけど、今はモラトリアムの時代だし大人になる必要なんてない時代だし、社会的に大人になってもいいことなんてないのかもしれないですけど、だけど穂村弘の歌を愛している以上は「幸せな大人」になれないんじゃないかっていう気がしない? 穂村弘のコアなファンには「不幸な子供」っていうイメージがあって……。不幸である自分が好きな感じ、駄目な自分が好きな感じがするというか……。すごい失礼な言いぐさですね。でも、どうしてもそんな気がしちゃうんです。もちろん私も「穂村弘ファン」のひとりですよ。
 じゃあ、今おまえは大人なのか幸せなのかって聞かれると、そんなには自信ないですけど。私自身は穂村弘的な価値観を大事に持ったまま生きていくのは、つらかったんですね。今は、そういうものじゃないものに喜びを見出して生きているので、前よりは多少、すこやかなんですけど。穂村弘の短歌を今まさに好きでいる人たちは、すこやかさが嫌いなのかな。いや、現代に生きてる人はだれもが病んでるんでしょうけど。「大丈夫なのかなあ、飲んでる睡眠薬の強さを自慢するようなこと書いて」とか、「そんな透明っぽいペンネームでいつまで生きていくの?」とかって、大きなお世話みたいなことをつい言いたくなってしまう。私がある時期から穂村弘ファンの集う掲示板に顔を出さなくなったのは、あそこにいると余計なことを言って彼らを傷つけてしまいそうだし、結果として自分自身も傷ついて駄目になりそうだったからです。「穂村弘」自身は、人気ある歌人になることで精神的に救われていくのかもしれないけど、穂村弘ファンたちは、穂村弘ワールドを愛しつづけながら救われていくことって可能なのかな。
 彼らの気持ちがわかるがゆえに背を向けて歩いていかなくては、みたいな、頑なさが自分にあったんだと思いますね。今、子供が二人いるんですけど、子供の相手してると、だんだん穂村弘の歌が読めなくなってくるんですよ。なんかね、「そうは言ってもオムツを変えなきゃ」っていうレベルに気持ちがいくので。枡野浩一の短歌は「そうは言ってもオムツを変えなきゃ」というレベルでも読めるんじゃないかと思ってるんだけど、穂村弘のは読めない気がしました、私自身は。
 だけどいつも思っているのは、それで私自身の気持ちが移ったからといって、移ったこっちが正しいとも思ってなくて。子供が大人になったとしても、子供のほうが正しいことだってありうるんだから、別に、大人的な価値観や社会に適応していくことが偉いともあんまし思っていないんですけども。自分の場合はこちらに来たかったし、よりもっと、社会に適応していきたいというのが自分の動機としてなぜかあるんですよね。あまりに適応能力がない人間なので、どうにか適応しなきゃという意識が強いみたいです。そのへんは穂村さんのほうがちゃんと会社員できてるんですから立派ですよ。ちゃんと実生活では社会人をやっていて、筆名「穂村弘」とご本名のあいだで、うまくバランスとってるんじゃないですか。
 五島:そのあたりが『石川くん(啄木の短歌は、とんでもない!)』(朝日出版社)の最後に書いてありましたよね。
 枡野:そうなんですよ。『石川くん』は、穂村弘に読んでほしいと思いながら書いた箇所もあります。でも読んでも、「ケッ!」と思うだけでしょうかね、穂村さん。私の心の中に住む穂村弘は「ケッ、くだらねえ!」と叫んでいました。
 どうですか、石川啄木。彼の持っていた理想っていうのは、「文学より生活のほうを大事にしたい、詩歌は生活に寄り添うものであるべきだ」というものだと私は受けとめたんです。実際の石川くんは、理想とは正反対の生き方をしてしまったみたいだけど。私自身は「生活を大事にしたい、そうはいかないかもしれないが、大事にしたいと思うことが大事」というふうに感じています。自分の家庭生活が楽しいこととか、仕事として文章を書くことでお金を得つつ人々を楽しませることとか、そういう方面の喜びが今は一番大切。そこにつながるようにすべての力を持っていってるから、そこに入らないものには興味を失っていっちゃいますね。
     自分の仕事とだれかの仕事
 橋元:では「短歌から遠く離れていこうとしている」とおっしゃっていたのも――
 枡野:あ、一時は完全にそう思ってたんです。このインタビューを引き受けたのも、短歌をやめる前に言い残しておこう、という遺言みたいなつもりだったんだけど。ここへ来て急に、短歌の連載を小説誌で始めることにしちゃったんで。なんかね、そのへん気持ちがまた揺れ動いてて……。短歌の連載を頼まれたのは初めてじゃないし、何度もことわってきたのに、どうして急に引き受けたくなったのか……。
 短歌は私にとって特別なものだったんです。「さあ、つくろう」と思ってつくったこと、ないんですよ。注文に応じてつくったこともなくて、自然に生まれてきちゃったものばかりで。できちゃったから発表したい、っていう感じで今まで来たんです。それをちゃんと世に出さないと一歩も進めないという気持ちが、ある時期まであって、とにかく出したかったの、世に。そのためにいろんな活動をしてきたんです。でも、短歌集が出版されて、そこそこ知られるようになってきて、当初の目的は達成しちゃったような気になったし、もう新しい短歌は生まれてこないし、生まれなくても全然いいと思ってたんですよ。
 今、気持ちが変わったのは、枡野浩一の短歌を初めて知ったっていう人が、このごろまた増えてきたからかもしれないですね。文庫の『ハッピーロンリーウォーリーソング』(角川文庫)が出たせいだと思うんですけど。仕事として熱心な依頼が来るんですよ。たとえばソニープラザ(輸入雑貨店)のフリーペーパーのために、バレンタインの短歌をつくってくれとか。そういう話が来たときに、ああこれは枡野浩一にしかできない仕事だなと思っちゃって。穂村弘はこんな仕事しないだろう、とか思っちゃうと、俺がやらなくちゃと思えてくる。
 なんかね、いつもテレビの仕事とか来るたびに、この仕事は穂村弘にはできないから枡野浩一がやるしかないや、と思っちゃって、引き受けちゃうのよ。そういうことないですか? 私が思う、「世界の幸せな形」ってのは、「その人が本来いるべき位置にいられる世界」なんです。その仕事は俺じゃなくて穂村弘がやったほうがよいと思うときは、穂村弘がやればいいと思うのね。どんな仕事も、自分じゃなくて別の人が書いたほうがいいものができるなら、別の人が書けばいいって気持ちがどっかにあって……。そういう意味で、バレンタイン短歌は枡野浩一に来た仕事だと思ったので、しょうがないから、インターネット上で呼びかけて公募して、枡野浩一=編の「バレンタイン短歌集」という企画をやったんです。短歌集といっても全部で八首だけなんだけど、オールカラーのきれいな大判の冊子に、短歌が広告コピーみたいにレイアウトされて。一首あたり一万二千円の原稿料が発生したんですよ。編者として枡野浩一がまとめてギャラをもらって、それを数人で分配したんです。私は編集手数料として少し多めにもらって。
     荒井由実と松任谷由実
 枡野:それからマガジンハウスの「鳩よ!」っていう雑誌があるんですけど、もうすぐ休刊するんです。私は「鳩よ!」がものすごく好きで、2月に文庫が出る『君の鳥は歌を歌える』は昔「鳩よ!」に連載していたものなんですよ(枡野注/角川文庫版『君の鳥は歌を歌える』は2月25日発行。親本はマガジンハウス刊)。それで、雑誌がなくなるって話を耳にするや否や、それなら最後に何か書かせてくださいって編集部に申し出て、モノクロ8ページをもらったんです。今、何人かの歌人と、写真家にも協力してもらって、誌上絵本みたいなものをつくってるんですけど……(枡野注/「鳩よ!」2002年4月号掲載、短歌絵本『どうぞよろしくお願いします』枡野浩一=編、八二一=写真。歌人の正岡豊や早坂類も参加している)。そういうことをやって、プロフェッショナルな広告コピーの仕事のようにやってもいいのかもしれないなと、気持ちが揺れているときに、たまたま短歌の雑誌連載の話が来たんです。しかも、私の最初の短歌集『てのりくじら』(実業之日本社)の版元からだったんですね。実業之日本社といって、すごく恩義を感じてる好きな出版社で。その雑誌も名前が変わって、生まれ変わるってことだったから、ちょうどいい機会かもと思って、この春から写真家と組んでやるんです(枡野注/「月刊ジェイ・ノベル」4月号から始まった巻頭グラビア短歌『もう頬づえをついてもいいですか?』枡野浩一=短歌・文、八二一=写真、渋谷展子=字幕文字)。
 そういうふうな状態に今なってきてるんで、これは自分の中では「松任谷由実化計画」って呼んでるんです。ユーミンは昔は荒井由実という名前で、すごく個人的な歌をつくっていたシンガーソングライターだったのね。それが結婚して松任谷由実になって、試行錯誤の末にポピュラリティーのある作品をつくるようになった。商業的に仕事を続けていく上で、「もっと人に必要とされるものを、しかも自分に嘘をつかずにつくっていこう」と決めたんだと思うんです。ユーミンと自分を比較するなんておこがましいと思うし、そんなことが自分にできるかどうかわからないんですけど、気持ちの上では「ユーミン的革命を」と思ってて。注文が来たとき締め切りに合わせて精一杯いいものをつくっていくっていうことを、やってみようかなと思ってます。林あまりさんなんかは、とっくにある時点から、そういう覚悟でやってらっしゃるんだと思うんですけれども。林あまりさんが少女漫画誌「コーラス」で連載してる、漫画家とのコラボレーション『ガーリッシュ』は、ある種エンターテインメントをめざしているんだと思うんですね。
 そうだな、私がめざすのはエンターテインメントですね。短歌は「文学」だと思われがちだけど、私はエンターテインメントにもなりうると思っているんで、そこを追求していくのが自分の仕事だと思いつつある。そういうふうに気持ちを新たに引き締めているんです。インタビューの話を引き受けたときは、とっても後ろ向きだったんだけど、今はちょっと前向きなんで、この時期にお話できてよかったですよ。
 五島:早坂類さんや正岡豊さんの作品がお好きだということですが、枡野さん、それから早坂さん、正岡さんに共通する点、リンクする点というのは?
 枡野:うーん、ないんだよね、あんまり。正岡豊と早坂類は、お互いの作品をどう評価してるのかなあ。でも私から見るとね、自分からは穂村弘も遠いし、早坂類も正岡豊もみんな遠いから、それぞれの人がわりと並んで見える感じ。こう、なんていうの? 星座を構成する星って、地球から見ると並んで見えるけど、実際には星と星とは遠く離れてるでしょ。そういうようなものだと思うんだけど。自分が書かないような短歌で、しかも心ひかれるって言うのが、早坂類。ものすごく好きで、昔「青木景子」っていう別の名前だったころから好きで、青木景子と早坂類が同一人物だと知らずに、両方のファンだったんですよ。青木景子名義の詩集もサンリオから十冊くらい出てるの全部持ってたんだけど、ある出版社の人に貸したら戻ってこないんです。早く返せ! 早坂さんと直接会ったことは三度くらいしかないんですけど、ああいう人が本物の詩人なんだって思っているから。自分は「散文家」だなって思いますね。そのことに誇りは持ってますけど。
 でも、どうなのかな。みんな早坂類とか読んで面白いって思わない? 面白いよねえ。もっともっと評価されても当然なのに。私の中では早坂類の存在ってすごく大きいから、もしも短歌地図を描いたら、早坂類とか正岡豊とかの存在はこーんなに大きくって、あとの歌人はこんなにちっちゃいんですけど。そのへんがね、なんだろうって思ってて。だってたとえば下世話なレベルの話だけど、早坂類って「ユリイカ」っていう詩の雑誌の新人賞とっているんですよ。青木景子名義では今井美樹のCDに詞を提供したりもしてるし。
 悪いけど、短歌界の歌人でね、現代詩の賞とれる人なんてそんなにいないと思います。賞をとったものが、いいものだって話をしてるんじゃないですよ。「現代詩手帖」の投稿欄に載るのだって、けっこう難しいんですから。これに一回でも載ったことある人で、短歌書いてる人なんて、そんなにたくさんいないと思うんだけどなあ。歌人のほとんどは雑誌ライターにはなれないし、プロの現場で作詞もできないし、現代詩の世界でも通用しないって気がしますね。短歌界だから受け入れられている人が多いっていうか、失礼な意見ですみませんけど、そういう疑いが常に私の中にありますね。正岡豊は「俳句空間」という雑誌の新人賞を別名義でとってるんだけど、俳句の賞とれる歌人だって、そうそういないと思うな。別名義で俳人として有名だった藤原龍一郎とかは別ですけどね。
 それから、ほんとは小説にしたかったけど力量がないから短歌になってしまった、というふうに見える作品も、駄目だと思う。千葉聡の短歌なんかも読むと面白いし好きなんですけど、だけどこれを小説にしたらもっと面白いんじゃないかっていう気がどうしてもしちゃって、どうですか?
 橋元:著作にもありますよね。「短歌はある内容を短歌にすることでもっともその内容が伝わるとき場合のみつかうべきだ」と。
 枡野:そうそうそう、小説にしたいんだったら、小説書けばいいのにって思っちゃうんです。詩が書きたかったら詩を書けばいいと思うし。せっかく短歌つくるんだから、短歌ならではの短歌でないと、意味がないと思う。千葉聡の連作『フライング』が小説新人賞を受賞したりすれば、画期的だと思うけど。
 橋元:その短歌がその効力を一番発揮するような場合っていうのは、向く内容向かない内容ということになるのかもしれないですけど。どうですか?
 枡野:どうなのかなあ。たとえば私がテレビに出てさ、短歌が背景にこう流れるだけで面白いと思うよ。広告のキャッチフレーズみたいなものとして持ち運びできるし。渋谷のでっかい液晶画面に、枡野浩一のつるつる頭がどーんと映って、短歌もばーんと映ったことがあるんですけど、そういうのを見たら道行く人がたまたま見たときに「あれ、なんだろう?」って立ちどまると思うんですよ。そういう広告コピーのようなものとして、五七五七七は大変いいツールだと思っているので。それって俳句だとまたちょっとちがうし、小説がテレビ画面にわーっと流れてもだれも読まないじゃない。詩だってそうですよ。CMなんかで詩がつかわれることもあったけど、CMにつかえる詩ってほんとうに限られちゃって、それこそ谷川俊太郎とか、『かぜのひきかた』(書肆山田)の辻征夫とか、ああいう詩人のだったらつかえると思うんですけど、普通の現代詩はテレビに映しても、人々を振り向かせるのは難しいって思う。
 橋元:じゃあたとえば一行なり二行という詩ということでもなくやはり短歌がよい、と。
 枡野:やっぱり五七五七七のリズムは日本人にはぴったりくるし、五七五だと標語みたいじゃない。標語は標語でいいんだけど、ちょっと長くて理屈もこねられて詩的なことも言えるっていう、このくらいの長さのツールが自分には合っていたというか。
 テレビ(枡野注/スカイパーフェクTV「ソネット・チャンネル」)の仕事で、いろんな人の短歌をひとつずつ紹介して、その短歌をもとに枡野浩一がちょっと哲学するという企画に出演したんだけど。早坂類の短歌をワニに向かって語りかけたり、五十嵐きよみの短歌をバナナの木に向かって語りかけたりとか、そういうのをやったんだけど、なかなか好評でしたよ。僕はずっとそういう、雑音の中で読まれる短歌だけを本にしてきたつもりなので、短歌をツールとして活用するという意識はとても強いと思います。
     芸術とエンターテインメント
 橋元:ではやはり、より多くの人に限定せずに受け入れられるものがよいということでしょうか。
 枡野:受け入れられなくてもいいんだけど。たくさんの人々の目にふれさせたい、っていうのがあるんだと思う。嫌いな人にも届かせたい、っていうのが自分のモチベーションとして大きいので。なぜそうしたいのかは、よくわからないんですけどね。とにかく多くの人に読まれることが大事。ものすごく多くの人の目にふれて、やっとその言葉を真に必要としている人にも届くんだと思ってるから。だって短歌集が角川文庫で出て、初めて読んだ人だって大勢いたわけだから。こんなにテレビとか新聞とかでも無理して露出してきたつもりなのに、それでもまだ枡野浩一をまったく知らなかった人が、今ごろソニープラザの仕事を依頼してくれたりするわけだから、そんな もんなんですよ。現代における短歌の存在感なんて。だから、かつて広告会社につとめていた経験を最大限に活かして、広報活動を一生懸命やっているつもりで。そんな枡野浩一の直面している雑多な問題なんて、歌壇界隈の歌人たちには興味もないことだろうけど、私にしか悩めない問題だと思って、悩みながらやってます。
 橋元:たとえば音楽つくる人の中でも「俺がわかればいいんだ」というスタンスで純粋な芸術を突き詰めていくんだというような方向でやられている方もいると思いますが。
 枡野:自分の短歌を芸術だと思ってないのかもしれません。ただ、そういうものの価値はすごくわかっているつもりだし、たとえば私の好きなミュージシャンでも売れなかった人、多いですよ。芸術のよさはわかった上で、自分がやるからには少しでも売れなきゃっていう気持ちがあるんだと思う。私は早稲田出身のカステラっていうバンドがめちゃめちゃ好きで。あらゆる表現者の中で、あれほど「自分にぴったり」と感じたアーティストはなかったですね。なぜ自分がカステラのメンバーじゃないのかと悩むぐらいだったし。彼らに会いたいがために音楽ライターになって、インタビューしてたくらいだし(枡野注/カステラはデビューアルバムがオリコンチャートの上位にランキングされたし、特別「売れなかった」というわけではない)。
 橋元:どんな音楽でしょう。
 枡野:えーとね、たとえば真心ブラザーズっていうのはカステラの後輩で、カステラの影響を受けながら出てきた人たちなんですね。だから初期の真心ブラザースをもっとシニカルにしたような作風で……。音的にはまあ、いわゆる普通のパンクバンドに見えるところもあるんですけど。歌詞がね、それまで世の中になかったものなんです。いまだに正しく評価されてないと思う。カステラの歌詞をきちんと評価しようとしていた男の音楽ライターなんて、枡野浩一くらいだったんじゃないかって思うくらい不遇だったんですけど。だけど不思議なことに今、私がネット上でちょっといい短歌つくるなと思って声をかけた人が、カステラのファンだったりとか、真心ブラザーズのファンだったりとかしますね。『かんたん短歌の作り方』でフィーチャーした脇川飛鳥が真心ブラザーズのファンなんですけど。なんかね、そのへんの趣味の狭さ、ストライクゾーンの狭さが、自分の限界だなって思うこともありますね。
 同じく『かんたん短歌の作り方』に出てくる梅本直志はTheピーズっていうバンドのファンで、僕もピーズ大好きなんですけど、ピーズのボーカルとカステラのボーカルは双子の兄弟なんですね。カステラのボーカルは、今はトモフスキーっていう名前でソロ活動してます。もう出会ったときの衝撃っていったらなくってね、自分が才能を大爆発させて書いたらこういうものができるのかもっていうくらい気にいってました。自分の短歌が一番影響を受けているのは、カステラの歌詞だと思います。影響を受けたっていうか、もともと体質が近かったのかもしれないけど。枡野浩一って昔カステラのメンバーだったんでしょ、っていう噂がネットであるらしくって、してやったりと思いました。「いい噂だ、そのとおり!」とか思って。「もっともっと、その噂よ広がれ!」って祈ってます。
      音楽と漫画
 橋元:ご両親の教育的な方針があって漫画を大学に入るまで読まなかったということですが。
 枡野:そう。ちなみに私は自分がバンドをやろうと思ったことは一度もなくて音楽ライターやってたり、漫画を描こうと思ったことも一度もなくて漫画評書いたりしてるんだけど。そのへんは自分の能力をわりと冷静に見つめてるんで、自分がやっていいことと、やってはいけないことがあると思ってますね。自分が文章書くのはやっていいことだけど、漫画描いたり音楽やったりするのはやっちゃいけないことだと思っているんで。自分が企画したCDが出てるんですけど(枡野注/『枡野浩一プレゼンツ/君の鳥は歌を歌える』東芝EMI)、それも作詞だけやって、曲はみんなプロにつくってもらって。一曲だけ自分のつくったメロディがあるんだけど、それもたまたま生まれたやつが採用されたって感じ。自分の器をわきまえてるって意味で、俺ってなんて謙虚な人間だろうと思いますね。そこを履きちがえちゃうと、自分はその気になれば何でもできると思っちゃったり、チャンスさえ来ればいつか活躍できると思っちゃったりしがちなんですよ、若いときとかって。ロンドンからオファーが来れば俺だって活躍できるとみんな思ってるクラブの若者とかね。みんなそう思いがちなんだけど、全然そうじゃないってことをわかってないと何もできないと思っているので。私は、言葉に関する仕事なら何でもやってみていいと自分に許してますね。詩的飛躍のある詩は書けないし書かないんですけど、散文だったら何でも書いてみなきゃと思ってるんですよ。
 山崎:小説書いたりはしないんですか?
 枡野:小説はね、ショートショートを高校時代は書いてたんだけど、あんまし面白くなかったね。高校生向けのコンテストで入選したことはありますよ。どうせ、ほっておいてもいつか書くだろうと思って、無理矢理書くことはやめているんですけど……。なんかコラムとか書いててちょっと名前が出てくると、すぐ「小説書きませんか」って言われるんですよ。つい反発したくなって、嫌ですって言いたくなっちゃうんだけど。でも書きたくなったら、とめられても書くと思っています。
 あ、まだ秘密なんですけど、私の好きな歌人が今度小説家としてデビューするんですよ。お楽しみに……(枡野注/早坂類が「群像」4月号に初小説『ルピナス』を発表。その小説は枡野浩一のおかげで雑誌に掲載されたなんて、ちっとも思っていない)。
 橋元:今の枡野さんの核となる過去の芸術体験というのはトモフスキーさんとかその他に影響を受けてきたところとしても音楽が大きいんですか?
 枡野:いや、そうでもなくって。本はもともと好きなんですけど。私が好きな小説家っていうのは赤瀬川原平(別名「尾辻克彦」)とか、今は保坂和志なんですけど、あんまり文学の王道に見えない作家なんですよ。保坂和志の小説は大好きで、いくら読んでも全然不満がないのね。不満がないってところが、自分が小説書かない原因なんじゃないかと思ってて。短歌は既成の作品には不満だらけで、自分が書いたやつのほうが面白いと思うんだけど、小説は保坂和志読んでれば、すごく面白いから、ここをもっとこうすればいいのにとか思わない。それで満ち足りてるんだと思うんですよね。
    「恥ずかしい」「恥ずかしくない」
 橋元:それでは同じような価値観というか問題意識をもって活躍されている方は?
 枡野:問題意識というか方法論が近い人は、わりといる気がします。漫画家とかに多いかも。私が『漫画嫌い *枡野浩一の漫画評(朝日新聞1998〜2000)』写真=八二一(二見書房)で紹介している描き手の多くは、自分と何かを共有してる気がしますね。南Q太は性格はまるでちがうんですけど、方法論はわりと通じるところもあって。「何をするか」ではなくて「何をしないか」で勝負をしてる人だと思うのね。『君の鳥は歌を歌える』で南Q太について書いたことは自分にも当てはまるというか、何かを排除して排除してつくっていくタイプなんですね。これはやらない、ここは書かないと決めてる部分が多くって。それこそ現代語しかつかわないとか、そういうルールを自分に課していきながらつくっていくのが私の方法だから。よく「これが欠けてる」とか言われるんだけど、欠けてるんじゃなくてわざと書いてないんだよって言いたくなることもありますね。穂村弘に、枡野浩一の短歌は修辞的には「よちよち歩き」だって言われたことがあって、私は修辞なんてところをまったく目標にしてないから、すごくマトハズレなこと言われたような気がして苦笑しちゃったんですけど。つまり私、レトリックとかは凝らないほうがいいと思ってるのね。荻原裕幸が〈作品として加工されていない印象のことば〉(枡野注/『俳句と川柳、と短歌』 http://wwww.ne.jp/asahi/digital/biscuit/times25.html)って評してくれたんだけど、それは狙ってやってるんです。気どった比喩なんて恥ずかしいと思ってるし。
このあいだ妻(南Q太)と飯食ってて、「比喩って恥ずかしいよね」って話で盛り上がったんだけど。たとえば「愛してる」って伝えるために「月がとっても青いなあ」って言うとか、恥ずかしくない? 言いたいことがあるなら、はっきりそのものを言えばいいじゃん。比喩はよっぽどうまく決まらないとかっこ悪いと思いますね。で、そういう恥ずかしいところを排除していくと枡野浩一の短歌みたいにそっけなく仕上がるんだけど、わざと排除してるのに、そこが欠けてるとか言われても……。 
 あ、きっと私が穂村弘の短歌を読むときは、「モード」を切り替えて恥ずかしがらずに読んでるんだね。だけどテレビに穂村弘の短歌が映ると「うわあ、やめて!」とか思っちゃいますね。「テレビに映しちゃ駄目、その短歌、まぶしすぎる!」という感じがしました。前に穂村弘『シンジケート』(沖積舎)と枡野浩一『ますの。』と林あまり『ガーリッシュ』(集英社)が同時に『王様のブランチ』で紹介されたことがあって、林あまりのと枡野浩一のはまあ平気だったんだけど、穂村弘のは変だった……。それは私だけの過剰反応かもしれませんけど。そんなわけで自分の場合は、テレビの中で平気で通用する短歌、世間の冷たいまなざしに耐えられる短歌をめざしてるんだと思うんです。そういう面では枡野浩一の短歌もまだまだですね。
 五島:保坂和志さんというのはそういう意味のエンターティナーですか?
 枡野:保坂和志、単純に笑えるし面白いよねー。どう?私は大好きなんですけど、保坂和志はもっともっと評価されたり売れたりしなきゃいけない作家だと思いますね。あんなにいい仕事している作家は日本にいないと思う(枡野注/詩集『(愛蔵版)ガムテープで風邪が治る』の推薦文は保坂和志)。昔ね、私のことをすごく買ってくれる編集者がいて「枡野さんは村上春樹になれる人だ」って言われたときに、私は村上春樹って嫌いだから「えー、そんなのなれますよ」と思ってた。本気で。それで、その編集者が学生の集まりかなんかで「枡野さんは村上春樹になれる人です」とみんなに言っちゃったみたいで、みんなが「そう言ってましたよー」ってざわめいてたんだけど、「別になれると思うよ。それぐらい」って言っちゃったのね。だって、あんまし凄い人と思ってないんだもの。でも「枡野浩一は保坂和志になれる人だ」ってもしも言われたら、「なれない、なれない」って思うから。そういうものだと思いますね。自分にとって大切なものかどうかだから。
 村上春樹、ピンとこないんだよねー。とくに文章。ある時期までは無理して読んでたんだけど……。村上春樹が翻訳した小説も苦手。だけど価値が自分には理解できないからといって軽んじたりしたら、枡野浩一の凄さを理解できない馬鹿な人と同じになっちゃうから、猫に小判ということにしておいてください。うん、村上春樹って保坂和志と顔がそっくりなところがすばらしいと思いますよ!
 橋元:「恥ずかしいの排除」って言うのは共感しますね。
 枡野:でもね、それも人によって基準のちがうことで、僕の短歌を読んで恥ずかしいって言う人も当然いるし、何を恥ずかしいと思うかはそれぞれちがうと思うんですよ。世代的なものもあるだろうしね。
 五島:明らかに感覚が異なるものを読むときには、モードを切り換えて読みますけどね。
 枡野:それがいいよね。すべてを恥ずかしがっちゃ、もったいないし。時々はモードを切り替えて、そこに浸ってみるのがいいと思う。私も正岡豊や早坂類を読むとき特別のモードで読んでると思いますよ。これからは「モードを切り替えて生きる時代」ですね。ひとつのモードでずっと生きていくのは無理。ハードの部分のモードを切り替えることが重要になってくるでしょう。われながら、もっともらしいこと言ってるなー。
 橋元:この『かんたん短歌の作り方』は連載をまとめた本ですよね。この連載をされての感想などはいかがでしたか?
 枡野:この本は小さな奇跡が重なって世に出た本なんですよ。私がライターとして「週刊SPA!」でお世話になっていた男性編集者に、ネット上で知り合ったという彼女がいたんですね。その彼女が「キューティ・コミック」の編集している会社の編集者だった。それで男性編集者が女性編集者に枡野浩一のことをすすめてくれたんだって。そしたらその女性編集者が枡野浩一の短歌を気にいって、「連載やりましょう」って話になったんです。でも本当は「キューティ・コミック」の男性編集長は「こんな連載やっても短歌の投稿なんか来ないだろう」って思ってたらしくて。でも女性編集者が押し切る形で連載が始まって、始まってみたら反響がすごい大きかったんですよ。それで連載を続けて、漫画家の南Q太とも知り合い、結婚までしちゃったんですけど、そういう、さまざまな「愛」に支えられた仕事だったんですね。
「キューティ・コミック」っていう漫画雑誌で短歌投稿ページの連載ができたっていうことを誇りに思ってるんですけど。そんな話は普通来ないし、私じゃなかったらできない仕事だったと思う。穂村弘の『短歌という爆弾』がコマ切れに雑誌に載ってたら、だれも読まないと思うし。それがいけないってわけじゃないよ。あれは崇高なものですけど、私のやろうとしていることはちがうっていうコントラストとして面白いでしょう? 私の場合はああいう文章にしなきゃいけなかったし、設定として連載タイトルは『マスノ短歌教』にしなきゃならなかったし、「教祖様」という架空のキャラクター、現実の自分よりもちょっとお馬鹿なキャラクターをつくってやってたんですけど。
 編集部には葉書もどっさり来たし、「枡野さん結婚して」っていうラブレターまで来たし、楽しかったんだけど、途中で苦しくなって自分から言いだしてやめました。それでもちゃんとある役割を果たしたとは思っていて、単行本にもなったしね。すばらしい仕事ですね、これは。今同じことをやれって言われても情熱が続かないかもしれない。単行本のQ&Aのコーナーは書き下ろしなんですけど、よく書けたものだと感心。穂村さんが「あーあ、こんなこと書きたくないんだよな、俺」とか言いながらメロンパン齧りつつ書いてるとしたら、枡野浩一は「これを心から伝えたいんだ!」っていうことだけ飯も忘れて全力疾走で書いてるから。隅々までね。時にマニアックではあるけど、ほんとにわかりやすく書いてる。もっともっと売れなきゃおかしい本だと思いますね。世の中まちがってる。『短歌という爆弾』のカバーと付け替えちゃおうかな。「『短歌という爆弾』買ったつもりなのに中身は『かんたん短歌の作り方』!?」って。せっかく妻に頼んで表紙のイラスト描いてもらったんですけど。南Q太は普通、ひとの本の表紙は描かないんですけどね(枡野注/最近は赤川次郎の表紙を描いたりしている)。かえって短歌好きの人は、こういう表紙じゃ、ひいちゃうのかな。それはまあ覚悟の上だったんだけど……。
 橋元:ピンクですからね。
 枡野:年配の歌人らしい人から、「読んでみたら意外なほどよくて驚いた」って、匿名で葉書が来たりしましたよ。匿名なのが嫌でしょ。なんか偉そうな文章だったから、きっと偉い人なんだと思うけど。短歌つくってて偉い人で、匿名にするくらい有名で、つい読んでみたら認めちゃったんだけど公にはそのことを言えないっていう感じが伝わってくる葉書だった。
 橋元:その辺の、少し距離を取らせるというか、いわゆるベテランといわれる人たちが敬遠しがちだという原因はどのあたりにあると思われますか、やはり「かんたん」というところでしょうか?
 枡野:私の書き方が、「教祖様」だったせいもあるんだけど、排他的に見えるんだろうね。穂村弘の本とは別の意味で、とっつきにくかったんでは。詩的飛躍は恥ずかしいとか、古語は絶対つかうなとか書かれちゃうと。「じゃあ、自分のやってることはなんなの?」と歌人ならみんな思うだろうから。そういう意味では、面白く書こうとサービスするあまり、仮想敵みたいなものをつくりすぎたっていう反省はありますね。ただ、ちゃんと読んでもらえば、私が旧仮名遣いや古語をまったく嫌いかっていうと、そうでもないってことがわかるでしょ? だって好きな歌人として藤原龍一郎とか香川ヒサとかの名前が出てくるんだし。まあ、でも、これは名著だから時間がたてば、みんなによさが伝わってしまうとは思いますけどね。
橋元:でも実際の感想が寄せられなかったにしてもやっぱりみんな意識すると思うんですよね。たとえばすでに短歌をされている方々とかに。
 枡野:こっそり立ち読みとかしててくれたらいいのに。「意地でも立ち読みで済ませてやる」とか言って、最後まで立ち読みしちゃったり。
     天野慶と杉山理紀
 五島:学生では、会った人はみんな読んでますけどね。世代によって受け入れられ方の差というのがあるのでしょうか?
 枡野:まあ、あるんでしょうね。この本で私がフィーチャーした歌人って、みんなけっこう活躍しつつあるでしょう? 自分はひとの才能を見る目がすごくあるなあと思う。自分の能力のほとんどはそこだと思うくらい。自分自身が物書きとしてめちゃめちゃ才能があるとは思ってないんだけど、そこは謙虚なんですけど。ただ、どういうものがいいものかという判断基準がすごくあるから、自分の書いたものもその判断基準に照らし合わせて書いてるだけなんだよね。「これはOK」「これはプロとしての仕事になってない」って判断する目があるだけだから。それにしても打率、高いでしょう? 加藤千恵は『ハッピーアイスクリーム』(発行=マーブルトロン、発売=中央公論新社)が三刷(累計六千部)だし、ディスカヴァー21っていう出版社から作品集を出す予定の天野慶と杉山理紀、『うたう』の新人賞で入選して話題になった佐藤真由美……。そのほかの人も、これから活躍していくと思います(枡野注/脇川飛鳥と天野慶が太田出版から共著を出す予定らしい。その本には「早稲田短歌」の天道なおも参加)。
 橋元:そうですね。確かに短歌シーンがこれでにぎわうというのは、すごくあったと思います。
 枡野:もちろん矛盾をはらんでる部分もあって、「短歌をつくらなくても平気で生きていける人はつくらないでほしい」とか、あとがきで言ってたりして、間口広げてるように見えながらじつは閉じてるっていうところが微妙なんだけどね。あとはあの本でフィーチャーした人で、たとえば杉山理紀の歌なんかは私の提唱する「かんたん短歌」かというと、ちょっと作風がちがうじゃない。梅本直志も……。そこがちょっとアレなんだけど、でも枡野浩一の目論見としては、この本を叩き台にして飛び出ていってほしいと思ってる。できれば歌壇界隈の人たちも、この本を読んだ上で、じゃあ自分たちのめざす「短歌」とは何かと、考えてくれればいいと思う。そのためにはきっと役立つ本でしょう。この本には、枡野浩一的な短歌観から抜け出したい人のための逃げ道も、いろいろつくってるつもりで。いろんな短歌の本も紹介して、穂村弘の入門書も紹介して……。いつかは枡野浩一から遠ざかっていってほしいというふうに書いてるわけですから。
 短歌を人に教えるとしたら、まずここまで狭く言わなきゃ駄目だと思うんです、最初は。「これがいい歌なんです」っていう価値観をきちんと提示した上で、「でもこれは私の基準だから、あなたたちはちがうやり方を探してほしい」って言うのが、正しい教え方だと思ってるから。「短歌は何でもありですよ」って最初に教えちゃ駄目だと思うんだよね、先生は。教育方法としては、かなりまっとうなものだと思っています。私は穂村弘の本とか見ても、短歌は上達しないと思うんだけど。あれは短歌をやってる人が読んで「おお、そうか」と思うための本であって、初心者が読んで真似して上手くいくかっていうと、だれも穂村弘みたいには書けないと思う。
 穂村弘自身も新聞のインタビューで「この本を読めばだれでも俵万智や啄木のように短歌が書けるようになります」みたいなことを言ってて、でもきっと「この本を読んでも穂村弘のようには書けない」と内心思ってるんですよ。そのインタビューの微妙な言葉をちゃんと読み取ったほうがいいと思うんだけど。そもそも短歌をつくるときに穂村弘の真似をすることほど、ひどいことはないと思ってるので……。「かんたん短歌」同士がみんな似通ってしまうっていうのは、ある種「川柳」みたいなもんだから、ありだと思うんですね。川柳って、みんな似通ってるでしょ。あれは川柳さんっていう人が始めたことをみんなで真似してるから仕方ないんだけど。匿名性の、人類の共有財産みたいなものになっていくんですよ、川柳っていうのは。それと同じ意味で、「かんたん短歌」がそれぞれ似ちゃうのはしょうがないんですけど、穂村弘的な短歌で穂村弘に似ちゃうのは最悪だと思っているので。
 私の本も矛盾をはらんでるけど、穂村弘の『短歌という爆弾』も矛盾をはらんでるんじゃないですかね。あのメールによる短歌指導とかも、歌としては面白くなってるかもしれないけど、「あれじゃあ穂村弘の短歌じゃん!」って思わなかった?「穂村弘が人の言葉をつかって短歌をつくっただけでは?」って。実際あれでつくった短歌、穂村弘歌集に収録されてたよね。あの〈恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死〉っていう歌とか。
 橋元:この『かんたん短歌の作り方』の存在が、短歌シーンのある一面をついてるっていうのはあると思うんですよ。これが『短歌という爆弾』と混在しているという状況も含めて。
 枡野:うん。ただ、たとえば「かんたん短歌」があって、そうでない短歌があったときに、どっちが正しいと決めたいわけでは全然なくて、共存すべきだと思っています。それはもう大前提なんですよ。だれかがものすごい魅力的な説得力あふれる文章で、文語って素敵だなと思わせることを書いてくれたら、自分も思わず文語で短歌つくりたくなったりすると思うし。そういうものこそを求めてるのであって、文語派の歌人なんか死んでしまえ! と思ってるわけじゃ全然ないんですよ。そこは誤解されがちなんですけど。そこで私が言いたいのは、なぜ私がそう思ってるのに向こうは「枡野浩一なんか短歌じゃない」とか言いたがるのかが不思議で。あなたに何を言われようと別にそんなこと関係なくこっちはやってるんだから。
 橋元:ずばり、なんででしょう。
 枡野:自分の短歌観が揺らぐのが、怖いんでしょう? だったらあなたたちの短歌が何かっていうことを、きちんと言葉にして提示してくれればいいだけのことだから。その提示がまるでできてないんじゃないかっていうのが不満です。俳人の佐々木六戈が角川短歌賞とったけど、佐々木六戈の短歌でさえも「あなたの作品は短歌じゃない」って言われたらしいよね。それならあなたの思う短歌とは何なのかを評論の形できちんと提示すべきだっていうふうに、佐々木さんが「受賞の言葉」で書いてたんですよ。立派な受賞の言葉だと思いましたね。私はいつもそれを求めていて、そういう評論を面白く書いて読者に提示するべきだと思うし、それが歌人の数だけあるというのが、本来の意味で短歌という世界を豊かにするんじゃないかと思っているんです。枡野浩一としては自分の考えてきたことをこんなにも明確に提示してきているんだから。なんか、もう気が済んじゃったところがあって、あとはみんなが『かんたん短歌の作り方』を踏み台にして活躍してくれればいいとか、自分自身は新しいものをつくっていけたらいいなとか。で、もっと稼ぎたいとか、そういうシンプルな欲望があるぐらいで、正直、短歌界全体をどうにかしたいというふうには思わないですね。
 橋元:枡野さんの中ではこの一冊はひとつの段階だったと。
 枡野:角川短歌賞で「最高得票落選」したこととか、かつて自分の作品をなかなか世に出せなかったこととか、そういうことの決着を自分の中でつけなきゃいけなかったから、書いた本なんだと思いますね。
      インターネットとテレビ
 秋元:ホームページ(http://talk.to/mass-no)の掲示板「マスノ短歌教信者の部屋」を閉じられましたよね。その理由を教えていただけますか?
 枡野:理由はいろいろあるんで、一言では言えないんですけど……。一番の理由は、ネットって金になんないじゃない、直接は。それがけっこう大きかったかもしれない。これでも私はネットを仕事につなげてるほうだと思うんだけど。ネット上で出会った加藤千恵の短歌集を企画して、「プロデューサー印税」もらったりとか。だけど、直接はお金にならないから、もっとお金になる仕事に本腰いれようと思った。それがインターネットから遠ざかった、大きな動機のひとつかも。
 あと、もう二年くらい掲示板を運営してると、書き込まれることが「またか」と思うようなものばっかりになってきちゃって。たとえば、枡野浩一の本を読めば書いてあることとか、みんな質問してくるじゃない。それがつまんなくてね。なんか、加藤千恵の短歌集を出したあたりから、ひとの短歌をろくに読まないくせに、自分の短歌を読んでくれって書き込む人が、続々と来るようになっちゃったのね。それがうざったかったというのもありますね。
 掲示板でのもめごとにしても、これは今までに三度くらいやった喧嘩と同じパターンだよ、っていうようなやりとりになっちゃったりとか。これなら前のときと同じ切り返しで済むやとか、そういうのがわかってしまうと、うんざりしてきて。私は同じ話をけっこう何度もしゃべってしまうほうだし、相当くり返しに鈍感なほうなんですけど、さすがに「致死量こえた」っていう感じがして。ああ、またこの質問? もういいよ、って気がした瞬間とかあったんですね。
 そんなときに、テレビに出たら司会の秋吉久美子さんに言われた言葉があって ……。何言われたかというと、そんなに大したことじゃないんですけどね。楽屋でね、「秋吉さんの司会ぶりがすごく好評でした、私のホームページの人たちにも」って言ったら、「そんなところばかり見てるから駄目なのよ。もっと広いところ見ないと!」っていうふうに軽く言われて。なんか自分でも、そう思ってたから。どんな文章も自分のホームページの常連たちに向けて書いてるなあ、って気がしてた時期だったんですよ。
 自分自身で気になっていたところだから、軽く言われたことがすごく痛くて……。ホームページの常連さんて、自分に好意持ってくれてる人たちばかりだし、いろいろ参考になること言ってくれるから、有り難いじゃん、「目に見える読者」として。でも実際はネットやってる人なんて、まだほんの一握りで、枡野浩一の本の熱心な読者で、インターネットやってない人だってたくさんいるでしょ。熱心なファンに限ってホームページには来なかったりして。自分の場合だって、銀色夏生のファンだけど、銀色夏生のホームページは一度しか見てないし。
 そんなふうに考えたときに、この人たちに向けて書くっていう姿勢が、やっぱりとても閉じてるなって思えてきて。昔はもっと遠くを見て書いてたつもりなのに……。それで、思いきって掲示板を休止しました。
 ネットは難しいですよ、人と人との距離感がね。自分の本の読者も来るし、単なる友人も来るし、昔の会社の同僚も来るし、実家の親もこっそり見てたりするし。親には見られたくないと思ってたけど、やっぱし見てたみたい。正月に実家に一日だけ帰ったら、初詣にどこ行ったとかいうことも知ってましたね。なんで知ってんの?とか思ったんですけど、私がホームページに書いたのを見てたんでしょう。
 あ、だけど掲示板に関しては、いろんな人からもう一度やってくださいって言われるんで、ちがう形で再開できないかと考え中ではあります。いつ気まぐれで再開するか、わかんないですね。
 五島:ネットはみんなが書きたがるから、とおっしゃっていたと思いますが。
 枡野:それもありますね。「文章なんて書かなくてもいい人は書かなければいいのに」と思ってるんでね。やっぱりだれもが書ける短歌なんて駄目だと思う。あなたには書けないものを書いてるっていうふうに書かないと駄目。スケートボードとか何でもそうだと思うんだけど、だれにでもできることなんて楽しくない。自分だからこそできることをするのが楽しいんであって。だから、『かんたん短歌』も一見あなたも私もだれでもつくれますよっていうことを言っているように見えるかもしれませんけど、そんなことはけっしてなくって、あなたにはできないでしょ、っていうことを絶えず言ってるつもりなんですよ。
 だけどその中でどうしても、書けてしまう人や書かずにはいられない人が出てくるはずで、そういう人は書きつづけるしかないし、書いていってほしいけど、そうでない人はどんどんやめていってもいいし、そういう部分は冷たかったと思いますよ。私はどんな人たちにも、そういう態度で接していたつもりなので。つまんない短歌書く人は無視してたしね。
 ところで皆さん、短歌雑誌は読まれるんですか? 読んでて面白いですか?
 五島:興味のひかれるところをひろい読みしたりします。
 枡野:昔はね、熱心に研究してたんだけど……。あとづけで、短歌を始めてから研究するようになったから、一応どんな歌人がいるのかをひと通り知らなきゃいけないと思って、著名な歌人の本を買っては読んだりとか。ネット上ですれちがう歌人の本なんて、みんな読んでるんだけど、いつも思うのは、こっちは読んでるんだけど向こうは読んでないんだよね。「枡野浩一さん、お名前はよく存じております」とかってよく言われるんだけど。なんか変な挨拶だと思わない? お名前は存じてるけど作品は存じてないと、そんなに主張したいのかな。
 じつは枡野浩一のほうが研究熱心なんじゃないかって正直思ってて。向こうは「かんたん短歌」が何をやろうとしてるかって理解してないだろうけど、私は一応は両方理解して、その上で「かんたん短歌」やってる強みがあると思ってるんです。
     『ハッピーアイスクリーム』と『手紙魔まみ』
 橋元:『うたう』(短歌研究社)とか見ててどうですか?
 枡野:『うたう』はさ、表紙とか、あんな地味なのにしなければよかったのにねえ。もっとピカピカの、たとえば「文藝」みたいなムック風のにして、もっと書店に長く置かれるようにしたらよかったのに……。もったいないねえ。
 五島:早稲田短歌会の中で、あれに入った方がいるんですけど――
 枡野:あ、知ってる。天道なおさんね。でも、結局あのコンテストで話題になってたのって、穂村弘が言ってた「棒立ちのポエジー」っていうことで、「棒立ちのポエジー」って何のことかというと、加藤千恵とか脇川飛鳥の作風のことじゃない、 実際のところ。
 穂村弘は、ああいう「棒立ちのポエジー」は、たまたま新鮮なものができちゃっただけだっていう立場を取っていると思ったんだけど。私は短歌なんて、もともとそういうものだっていう一種のあきらめもあって、偶然できちゃったものでも、あれだけ数が揃っていればいいっていう立場で、加藤千恵短歌集をプロデュースしたんですよ。だから、穂村弘が思うような短歌の玄人とはちがうんだろうけど、加藤千恵が上手いか下手かというと、私は上手いと思ってるんで。エッセイなんかは穂村弘より上手いときがあるんじゃないかって思う。何を書けば読者が面白がるかっていうことを察知する能力がすごくある人で。私は穂村弘よりも加藤千恵のほうが、プロっぽい書き手になれるのではないかって期待していますね。綺麗事ではない話をすれば、書き手の「年齢」とか「性別」とか「ルックス」とか「性格」とか、そういうものをひっくるめて「商品」なわけだし。
 プロの歌人って今、数えるほどしかいないから。「プロ」の定義っていろいろあると思うけど、私は「短歌の作品集を商業出版してる歌人」がプロの歌人だと考えてるので。穂村弘は『短歌はプロに訊け!』(本の雑誌社)を出した時点では、私の考える「プロ」ではなかったんですよね。穂村弘も東直子も結社を率いているわけではないし、ベテラン歌人というのともちがうから、あの本のタイトルも詐欺っぽいよ! 穂村弘や東直子が力量ある歌人だということは認めるにしても、だれがどういう基準で彼らを「プロ」と呼ぶんだろう? そもそも穂村弘や東直子が「プロ」でなかったら、あの本のコンセプトが揺らぐんじゃないかなあ。だって穂村弘や東直子が×を付けた歌を、ほかのベテラン歌人なら◎にするかもしれないし、水泳の千葉すずや漫画家の吉野朔実が、歌会の席で穂村弘や東直子の歌に×をつけることもありうる、それが短歌というものの宿命でしょ。
 私は加藤千恵のほうが枡野浩一より売れっ子の「プロ」になることなんて平気でありうると思ってるし、加藤千恵は意外と長持ちする作家だと思ってますよ。たとえ短歌をやめちゃっても何年か後にはまた小説とか、何かの本を出したりしてると予言します。「かんたん短歌」の連載をやってたときに若い人の短歌を飽きるほど見てきたから、ああこれは一回だけ運よく書けたんだなっていうのと、本気で書いてるし能力がある人だっていうのは、ある程度わかるんですよ。穂村弘が『うたう』で加藤千恵の歌を話題にして、でも結局は認めなかったっていうのは、穂村弘の足場の限界っていうか、役割っていうか、しょうがないことで、私の足場からは加藤千恵を認めるべきだし、自分が世に出さなきゃ、と思って本をつくったんです。
 穂村弘は『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(小学館)をつくったとき、主人公にモデルがいるかいないかは知らないけど、ある少女的な文体を駆使して、少女性を自分のものにしちゃったじゃない。でも私は、加藤千恵の少女性を自分のものにしたいとは全然思わなくて、「加藤千恵の本」を世に出したかったのね。んー、変な話、「まみ」がもしも実在の人物だとしてね、あ、実在するかしないかは私に教えないでほしいんですけどね、もしも実在したときに「まみ」本人があとで短歌をつくるようになったりしたら、どうなるんだろう。とか思わなかった? 私は思ったよ。太宰治に『女生徒』っていう小説があって、あれは実在の女生徒が書いた日記を元にしてるんですけど、元の日記を見るとほとんど同じことが書いてあるらしいって話を聞いたことがあるんですね。そういうときに、じゃあ太宰治は何をしたんだ? って思うと、なんか微妙でしょう。ということを穂村弘は知っていて、あえてやっているんだと思うけど。それは見事な仕事ぶりで、私にはできない仕事なんだけど。私だったら、その少女の言葉とか感性が魅力的だったら、その少女本人に書かせるよ。「まみ」のモデルが存在しないとしたら、余計なこと言っちゃったけど。
 橋元:「棒立ちのポエジー」についてはどうお考えになりますか?
 枡野:「棒立ち」っていうのにはネガティブなニュアンスがあって、要するに、こじれた末にあんなふうになったんじゃないから短歌としては駄目だって言いたいんでしょ。奥村晃作さんみたいにこじれた上で、あえて〈ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く〉って書いてるのとはちがう……ってことを言いたいんだと思う。香川ヒサさんとかも、トーストが黒焦げになるとかさ、他愛ないことを魅力的に書いてるじゃない。ああいうのが香川ヒサ歌集に少しだけ出てくるのはいいけど、そればっかりでは駄目っておっしゃってるんだと思う。でも私は、そればっかりで、いいと思う。
     「今だけの才能」と「続けていく才能」
 枡野:本にも書いたように、長続きさせることがいいことだとは思えないので、一冊だけで加藤千恵が消えてもいいと思ってるんですね。私はほんというと穂村弘も『シンジケート』が一番好きなのね。今の仕事も立派だと思うし、へーえ、ここへ来たか、と驚くんですけど。でも、デビュー作が一番いいと思う。ご本人がどう思っているか、興味深いんですけど。私自身は、ここへ来てまた仕事として短歌をやろうと思ってるから、苦しむと思うし、ひどいものつくっちゃうかもしれない。今ここで言ってることは、すべて私自身に帰ってくる言葉だと思って聞いてほしいんですけど。長続きさせることにそんなに意味があるんだろうか、ってことを常に思いますね。歌壇界隈の人は常に話をそこに持っていって、「長続きしなきゃ駄目だ」とか「加藤千恵は今はいいかもしれないが、いつか駄目になる」とか言いたがるけど、そういうこと言うのって大抵、昔も駄目で、今も駄目で、これからもずーっと駄目そうな歌人ね。
 現代歌人たちは「歴史の中の現代短歌」を確立することに熱心だけど、その結果じつは「現代」を見失っているような気がして……。何度も言うように、「現代」の中では短歌の存在感なんて、ほとんど皆無に等しいんだから! 私は今の時代の中で、枡野浩一の短歌がどんな意味を持つだろうかと、そこばかり考えてしまいますね 。
 歴史に名を残そうなんて考えてないし。私は死んだらもうあとは消えてもいいです。生きてるうちは活躍したいし、子供が成人するまでは稼ぎたいけど、死んだあとは……。死んで名を残そうっていう意識は、自爆してでもテロを……っていう意識につながると思っているので。私はそういうのは否定したいですね。生きてなんぼのものだから、生きているってことを楽しんだり、人生を祝福していかなくてはって。
 保坂和志の何がいいかって言うと、どんな作品も世界を肯定するためにつくられるべきだって主張しているところ。そのほうが難しいことだと私も思いますね。何かを書くことは世界を肯定していくってことだから、穂村弘さんが「早稲田短歌」のインタビューでおっしゃっていたことで、一番ちがう意見だと思ったのが、「だれかが自殺すると、その人のランクが自分の中でアップする」「自殺した人はみんな偉い」っていうような意味の発言。そこは全然ちがうって思いました。私はその意見にまるで賛同しない。死んだ人のことをそんなふうに祭り上げたらもう負けでしょう。生きている以上は。
 そんなこと言うなら穂村さん夭折すればよかったのに、って思っちゃう。私は『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の書評を頼まれて、〈穂村弘が死ぬことを期待していた人はたくさんいるはずだ〉って書いたんですけど……(枡野注/小学館のPR誌「本の窓」9・10月合併号掲載)。作品に青春を刻印した表現者は、夭折することをファンから期待されてしまう。その先も生きていくってことの困難さを、これから体現しなければならないはずなのに。あんな発言されてしまうと、穂村弘の表現者としてのランクが、私の中でダウンしますね。そういう幻想を持ちたくなるのは、すごくわかるので反発したくなるんですけど。私自身も『水戸浩一遺書詩集/ガムテープで風邪が治る』をつくったりしてるわけだし。
 橋元:穂村さんは、「僕には短歌しかできないからだ」とおっしゃいますが。
 枡野:どうでしょうねえ。でも、私だって不器用な人間で、会社勤めしてたころなんて毎日ひどかったですよ。穂村弘がエッセイで書くじゃない、ほら、コーヒーを口に含んでることを忘れてて、あとで服の上にべえーって吐いちゃったとか。あんなの自分だってよくやるから、あんまり同情しない。面白く上手に書いてるなとは思うけど。俺だって同じだよ、とか毎回思っちゃう。そういう自分がどうにか仕事したりテレビに出たりしてるってことが、重要だと思っているので。ちゃんと、日常生活を楽しんだりとか子供の世話をしたりとか、仕事でお金を稼いだりすることとか。そういうことができていくってことが喜びになっているんですよ、今ね。ほんとは何もできない人間なのに、ここまでマシになったかっていうのがあるんだけど、穂村さんは書くことでそういう自分を肯定していって、自分自身は肉体的には進歩しなくても、凄い作品さえつくっていけばいいっていう、芸術至上主義なところがあるんじゃないかな。
 橋元:「世界を覆い隠す呪文」ですか。
 枡野:うん。もっと「眼鏡のレンズを入れる」とか、そういう現実的なことから始めればいいのに。そこで俺は眼鏡のレンズを入れなくていいんだって思っちゃってるとしたら、穂村弘には惚れないなあと思う、自分が女なら。だけどああいう男が好きな女って多いんだよねえ。あー、やだやだ。こっちはこんなにも穂村弘のことを話題にしてるのに、穂村弘はこっちのことなんか気にもしてないんだよ。そういう男なんだよ。でもさあ、少女漫画の登場人物じゃないんだから、レンズを抜いた眼鏡をかけて世界と自分との間に壁なんかつくんないでほしいよね。だって変だもん。コンタクトして、その上に素通しの伊達眼鏡かけてるんでしょう? まちがってるよ、そんなの!
 あ、嘘です。穂村さんはあのままでいいです。いつまでも、変テコな穂村弘でいてほしい。私は私のやり方でいくので、穂村弘は永遠に……(枡野注/最近の穂村弘はレンズなしの眼鏡をやめ、今度は「レンズだけのフチなし眼鏡」をかけているとの都市伝説あり)。
 五島:ぼくは穂村弘が好きなんですよ。でも、ちがうと思うところももちろんあって、そこはやっぱりさっきの、モードを換えて読むってことに集約されると思うんです。だから穂村さんについてだけではなく、香川ヒサとか山中智恵子とか好きですけど、真似しようとはやはり思わないですね。
 枡野:あー香川ヒサの短歌って、私の目には突出したものとして飛び込んでくるんですよ。旧仮名遣いだったりするから、みんな「短歌」だと思って読んでるけど、よく考えたら変な短歌ですよねえ。奥村晃作だって変だと思うし。
 みんな、どんな歌人が好きなの? あなたは?
 宍戸:僕は俵万智さんとか。ほかには古典に出てくる、歌物語の歌とか。俵万智さんの現代語訳の本ありますよね。あれもよいと思いました。
     「歴史の中の短歌」と「同時代の中の短歌」
 枡野:『石川くん』で啄木の現代語訳やってみたんだけど、あれ難しいんですよ。俵万智の訳も上手いですよね。ただ与謝野晶子と俵万智って、性格がちがいすぎる気もしますけど。
 短歌つくってる人のほとんどは文章が下手くそだと私は思ってるんで、そんな歌人がいい短歌つくれるとは、とても思えないところがどこかあるんですね。もちろん散文をつくる能力と律文をつくる能力がちがうってことは頭ではわかってるけど、こんなベタなエッセイ書く人が、いい短歌をつくれるんだろうか、だまされないぞ、と思っちゃうところがあるんですよ。だから、私の好きな歌人って、みんな文章も上手いって思う人ばっかりで。そのへんは偏狭ですね。きっと短歌に期待してる部分が大きくないんですよ。散文で書きたいことは書いてしまうから、短歌は短歌で、言葉を持ち運ぶツールとしての役割を担ってくれればいいと。短歌で何もかも自己表現しようなんて思ってないんでしょう。
 そうすると『石川くん』みたいな、「なんだろうこれは」っていう、わけのわからない本ができちゃうんだけど。エッセイなのか、ストーリーなのか、短歌の本なのか、みたいな。ああいう、ボーダーレスなものが好きなんですね。いつも「自分が読みたい本」をつくっているだけなので、小説とか書かないんですかっていう質問には一応そう答えるようにしていますね。
 今、子供中心の生活の中で、じっくり小説を読むことがなかなかできなくて、精神的にも読めるものが少なくなってきたんですけど、そんなときでも読めるものは、いいものなんじゃないかと改めて思いますね。
 短歌をつくる人も、もっと短歌じゃないものをたくさん見たほうがいいんじゃないかと思うことが多いんですけど。私が短歌つくってるって言うと、万葉集の話とか始める人がよくいるんだけどさ。万葉集もわからないなりに見てみたけど、つまんないことしか言ってないじゃない、意味としては。そんなレベルのことじゃ現代人は生きていけないよ、っていうような内容だから、興味持てないんですよ。時々「わかるなあ」っていう内容のことが書いてあっても、それをまた現代に通用させるためには、もう別の言い方しないと駄目だと思うし。
 じつは「短歌」そのものは、どうでもいいのかなあ……。短歌の話をすると、どうしても穂村弘の話になってしまうのは、共有してるものが多いのに、最後にめざすところが全然ちがうから話題にしやすい、というのがあるんです。千葉聡とかについても、きっとあれこれ言えると思うけど、それも共有してる部分が多いからなんでしょうね。
 それ以外の歌人のやってることが、はなから自分の問題意識とちがうので、敬意は持ってても、興味は持てないことが多いですね。人にすすめられて、研究するつもりで読んでも、興味のないものは退屈。塚本邦雄とか岡井隆とかの初期はかなり好きですよ。思潮社の岡井隆全歌集は刊行直後に夢中で読みました。ただ、短歌を続けていくことでテクニックがどんどん上達してきて、そんなにモチベーションはないけど書いていくっていうことの面白さがまだわかんないので、岡井隆の最新歌集も買いましたけれど、なるほどと思うくらいで、そんなに自分のフェイバリットにはならないですよね、なかなか。自分が若造だからだとは思ってますけど。今の時代、こんなにいろいろな表現ジャンルがあるのに、なぜあえて短歌を……っていうことを忘れたくないんですよ。枡野浩一の近くに来るような、『かんたん短歌の作り方』に登場してくれた人たちって、みんな短歌に縁がないような人たちばっかりで。「キューティ・コミック」の連載を見なかったら短歌なんか一生つくんなかったよ、って人たちなんです。加藤千恵さんはあれでもまだ文学少女っぽくて、脇川飛鳥さんなんか、単なる体育会系だからね。
      短歌と短歌以外
 橋元:この本の中では、なぜこの現代にあって短歌なのかということは秘密だ、とおっしゃっていましたが。
 枡野:あれれ、そうだっけ? 大した「秘密」じゃないと思うんだけど……。表面的なことで言えば、言葉を持ち運ぶツールとしての短歌、というものを大切に考えてるという程度のことなんでしょうね。あとづけの理由はいくつもありますけど。
 実際、枡野浩一の本に最近出会ったっていう人に聞くと、ただの絵本だと思って読んで、あとで短歌だと知ってびっくりしました、という人が多いんですよ。それは自分の狙いでもあったんで、長い時間かかりましたけど、やってきたことは読者に届いているといえば届いていると思います。もう、二十歳のときにつくった短歌だったりするんでね、〈無理してる自分の無理も自分だと思う自分も無理する自分〉とか、あのへんは二十歳前につくった歌だから。十二年以上前でしょう? 自分の中で「古典」になってて、このまえもテレビの撮影で朗読したんですけど、もう、何やってんだよ何年も同じこと、って気持ちにはなりますね。でも仕事仕事、って自分に言いきかせながら街角で短歌、読みましたけどね。
 皆さんは今、二十歳ぐらい? そうなんですよ、それぐらいのときにつくったものだからね。大切な作品ではあるけれども今もまったく同じ気持ちってわけではないし、「まるで自分が書いたみたいな短歌だな」とは思うけど、今は少しちがうことを考えてるので。これから新しくつくる短歌は、どうなっちゃうんだろうとか、「自分の作品として納得できて、なおかつ商品としても通用する短歌」ができるんだろうかっていう、不安の中にいます。
 よく、お金もらって書いてるとかじゃないはずの歌人が「結社誌のしめきりが!」とかインターネットで書いてるのを見ると、しめきりがないところがアマチュアのよさなのになあ、とか思っちゃいますね。しめきりがつらかったら、やめれば? って。しめきりに追われて短歌つくってもしょうがないじゃんね。でも雑誌とかに参加してると、そうなっちゃうんだよね。雑誌のしめきりに合わせてつくるとかね。
 五島:自分が考えていることを他人にこすりつけたいという感覚はありますか?
 枡野:どうなのかな、それは。自分の考えていることのほんとうに微妙な部分は、短歌じゃ伝えられないと思ってるから、比較的通じるものだけを短歌にしているという面もあるのかもしれない。そこに全実存を賭けられないと思ってて。短歌で言えないことは長い文章で言うからいいというか。ただ、ある発見をしたということをほかの人と共有したいとか、自分の短歌読んで嫌な気持ちになったり、ほっとしてもらったりするような、投げ石のようなものとして短歌を世の中に流通させてるんだと思いますね。自分の意見に共鳴してもらったら嬉しいっていうものでもないです。他人の意見と自分の意見はちがうものだっていうのが前提なんで。
 橋元:対立もするからこそ、否定される面もあるからこそ書いていかざるを得ないという面もあるのでしょうか?
 枡野:そういう面もあるし、だれかに気にいられて本が売れたらいい、それで商売したいって気持ちも当然あるんだけど。でも、作品が支持されていくってことは常に、たくさんの誤解を引き受けていくことだから。そんなに何もかも理解されたいとか、何もかもわかってもらって嬉しいっていうことはないと思う。かえって、「認めたくないけど、でもわかる」とか「好きじゃないけど、なるほどと思った」とかいうレベルの人たちに届いたときに喜びを感じるかな。歌人の五十嵐きよみさんが、『かんたん短歌の作り方』を読んでみたら面白かったけど、でも自分は口語だけで短歌をつくるとかいうのは、ちがうと思ってるから信者にはなれません……みたいなことを言ってくれて、そういうのが嬉しかったりしますね。
 五島:投げ石意識はありますね。
 枡野:もっと遠くの人に石を投げたい、っていうふうには思わない? 一人でも多くの人が見る雑誌に載せなくちゃとか。短歌雑誌に投稿とかはしてるの?
 五島:もちろんできるだけ多くの人に見てもらいたいっていうのはありますね。石を投げてからまた考える。それから、最近賞に応募はしてみました。
 枡野:枡野浩一が角川短歌賞に落選したとかいうのは、ほんとうはオッケーだと思っていて、わざと反発してみせていたところはあるんですよ。自分が面白いと思う歌人がこれしかいないのに、自分の短歌が彼らに支持されるはずがないっていう意識はあったんで。それってお互いさまでしょ。むしろ、「週刊SPA!」とかに作品が載ったときの手ごたえがあったから、自分はそこをめがけて書いていこうと、決めてきた部分はあるのかもしれない。
 なんか、早稲田にも短歌の授業があるんですよね。水原紫苑先生とかの……。そういうの、出てるんですか。
 五島:出てました。もう終わったんですけど。せっせと書いて出してましたね。好き勝手に歌を書いてきて、それを出すと水原先生が歌を選んで黒板に書くので、そこでみんなで意見を言い合っていく、という感じですね。
 枡野:うーん、それは難しそうですね。私は文芸部とか文学研究会とかに所属してたから、合評会の雰囲気はわかるんだけど……。短歌の場合って結局、みんなが書き手になっちゃうじゃない。だから結局、ひとの作品に何か意見を言ってるひまがあったら、自分の理想とする短歌を自分で書けばいい、って思ってしまうんだけど、どう?
 橋元:意見聞いたら書きたくなりますけどね。
 枡野:そう? ある偉い先生がいて、その先生の意見が絶対とされていて、それをみんなでお勉強するっていうんならまだわかるんだけど。みんなが対等な表現者であったときに、「あなたの短歌はここが駄目だ」とか言われても、「じゃあ、あなたが駄目じゃない短歌を書けば?」って思うことが多くって、そこが短歌の難しいところじゃないかってやっぱり思う。五十嵐きよみさんの歌会掲示板とか、建設的な批評がくりひろげられてる場を見ると勉強になりますけど、私自身はいつも、「自分では短歌をつくらないような人」に自作を読んでもらってきたから……。結社には一度も入らなかったんですよ。
 私、穂村弘はある時期から、歌壇の中に自分の足場をつくっていこうってふうに意識を切り替えたんじゃないかと想像してるんです。それで自分のやってることを、歌壇の人々に説明したりするように努力してきて、今のようにちゃんと「歌人」として認められるようになっていったんだと思うので、それは立派なことですよね。私は結局、せっかく短歌総合誌が手を差し伸べてくれても、手をふりほどくような態度をとってしまったりして。その場所に魅力を感じていなかったからなんだと思うんだけど。だって短歌雑誌って読んでも面白くないし……。だから、テレビの『トップランナー』になぜ枡野浩一が出ないのかなって疑問は感じるけど、短歌雑誌に自分が載ってないことには疑問を感じないんですよ。あと、短歌アンソロジーなんかで自分に声がかからないっていうのも、あたりまえだと思うから気にならない。
 でも、枡野浩一に声をかけなかったアンソロジー(枡野注/小池光・今野寿美・山田富士郎=編『現代短歌一〇〇人二〇首』邑書林)を研究のために買って読んでみたら、編集委員の山田富士郎のエッセイの中に、枡野浩一の批判めいたことが書かれてて、やれやれって思いましたけど。声をかけないならかけないで、徹底的に無視すればいいのに。いわゆる歌人しか読まないようなアンソロジーに、陰口みたいなこと書かれても……。「そうだそうだ、枡野浩一なんか歌人じゃない、短歌パフォーマーだ!」って思いたい人たちが読む本だって、最初からわかってるわけでしょう。そんな場で、わざわざあんなこと書いて何の意味があるんだろう。はあ? とか思いましたね。
 橋元:その、原因というのは、どう捉えていらっしゃいますか。敵にしたがるというか、「枡野浩一は歌人じゃない」みたいな言われ方をすることの。
 枡野:うらやましいんじゃないですか? 悪口の裏側にはたいてい嫉妬があるものだから。私自身は自分の嫉妬心に敏感なほうなので、無自覚な嫉妬を持ってる人を見ると、ああ頭悪いなあって思いますね。そういう人が書く文章って、感情のコントロールが下手。私なら同じようなこと書くにしても、もっと笑えるように書きますね。枡野浩一にエールを送りながら悪口書くことだってできるはずだし。枡野浩一に好意的な人すらも頷くような書き方、枡野浩一本人も苦笑するような書き方だってできるわけじゃない。そのへんの技術がない人が多いんだなって、いつも思います。だけどね、山田富士郎は枡野浩一の短歌のこと、正しく理解してると思いましたよ。おっしゃってることには異議なしですけどね。私自身が小癪なふるまいをしてきたんだし、「短歌パフォーマー」って呼ばれるのは本望です。最近ちょっと気にいってるの、「短歌パフォーマー」って言葉。短歌パフォーマー、枡野浩一。『トップランナー』に 出るとき、肩書につかおうかな……(枡野注/NHK総合テレビ『トップランナー』は枡野浩一をついに出すことなく終了)。
 でも、もうちょっと短歌短歌してる人たちにも届く物言いをしたほうがよかったのかなあという気が、最近してきたので、この取材も受けようと思ったんですよ。「早稲田短歌」って、きっと短歌に興味のある人しか読まないだろうと思うから、いい機会かもと。あとは、なぜ今、早稲田の学生さんが短歌なんかつくっているのかっていうのに興味があったから。
    今までの枡野浩一とこれからの枡野浩一
 五島:今一番したいことはなんですか。
 枡野:夜、外出したいですね。子供に時間とられるので。きょうも久しぶりに妻に子供みてもらってて……。妻は人気漫画家なんで私よりずっと忙しいんですよ。お互い仕事を調整し合って子供をみるしかないんですけど、なかなかね。子育ては大変だと覚悟はしていたけど、これほどなのか、という感じですね。このごろ、子供がいない人とは話が合わなくなってきてます。共有するものがちがいすぎて。昔は子供とかが町で泣いてると、うるせえなとか思ったけど、最近は「かわいそうに、親も疲れてるんだろうな、ぼうや気が済むまでお泣きなさい!」とか言いたくなっちゃいますね。逆に憎いのは、子供がちょっと騒いだくらいで、偉そうに説教してくるオヤジ。うちの子供たちが将来払う税金が、めぐりめぐってあのオヤジたちを養っていくはずなのに、感謝の気持ちがまるでないんです。憎い。殺したい気持ちでいっぱいです。その気持ちはまだ短歌にしたことないんですけど、もっと現実的な嫌がらせしたくなったりしますよ。家つきとめて玄関にごみ置いといたり、ドアに呪いの短歌を書きつけたり……。考えてるだけでまだ実行はしてませんけど。でも格闘技を習いにいこうかと真剣に考えてます。
 秋元:私たちが今回取材しようと思ったのは、掲示板閉じられたときに、「短歌から離れる」というふうに書いてありましたから、もしかしたら、短歌と枡野の最後の接点なんじゃないか、と思ったからなんです。そうしたら「松任谷由実化計画」を遂行されていたんですが、現在の状況はいかがですか。
 枡野:まだわかんないです。今思いだしたけど、前に一回やったことあるんだよね。「小説新潮」に頼まれて、歌人のもりまりこと組んで、セックスの短歌つくったことある。イラストレーションが魚喃キリコで。枡野浩一が男側、もりまりこが女側の短歌をつくって、コラボレーションしたんですよ。あれをやってみたとき、「自然に生まれた短歌」とはちがうんだけど、面白いと思いましたよ。魚喃キリコさんの次の漫画作品集に、そのコラボレーションは収録される予定なんだけど、本の完成が延びてて……ずっと楽しみにしてるんですが。
 これからやってみて、つまづいたり、こんなの自分の短歌じゃないと辟易したりする時期も来るかもしれないけど、それはそれで仕方ないから。エッセイでも、書いて発表してみて、あとから「これはつまんなかった」って思うこともあるしね。連載を本にするときにまた工夫するとか、あんまりにもつまんなかったら本にするの自体をやめたりとかね。そのへんはもう、そのときの判断ですね。あの『君の鳥は歌を歌える』だって、すごい苦しんでつくってたんで……。あの本にいれた短歌の中で、自作短歌として認めたいくらいのクオリティのものがいくつあるかっていうと、二つぐらいですね。エッセイから切り離して、枡野浩一短歌集に混ぜてもいいくらいの歌っていうのは。あとの歌は、あの本の中で読まれるぶんにはいいけど、歌だけ取り出して読むと、自分にとってそんなに大切なものではないという感じ。でも、ああいうふうにやった企画としてはちゃんと枡野浩一の仕事になってると思うから、そのへんは納得してますよ。エッセイも、今まで書いたものの中で最高傑作ってわけじゃないけど、本にしてもいいってぐらいには書けてる。
 『石川くん』は、自分のイメージをほんのちょっと上回る形で仕上げられたなっていうのがあって、連載の最終回を書き終えた瞬間、だれかに拍手されたような気持ちになったの。現時点の実力を、最大限活かして書いた本だと思ってます。ネット書店ではベストセラー・ランキングに入ったけど、まだまだもっと売れてほしいな。今、啄木と縁の深い北海道地方では売れてるみたいだから、次は盛岡かなって。
 そういえば加藤治郎さんのネットでの『石川くん』評は素直に嬉しかったですよ。〈啄木という知己を得て、自分が文学史的に異端ではないことを確認した喜びに充ちている〉(枡野注/『現代短歌の世界』2002年1月@『歌葉』http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/gendai/index0201.asp)っていうの。加藤治郎さん、一度だけお目にかかりました。穂村さんも会ったのは一度だけ。正岡豊さんは三度くらいかな。なるべく「歌人」とは知り合わないように気をつけてきたんだけど、なんでそこまで頑ななのか、自分でも不思議ですね。
 短歌って、そう考えると、面白いジャンルだと思いますよ。穂村弘と加藤治郎と荻原裕幸が力を合わせてインターネットに「歌葉」を立ち上げたりとか、そんな光景、現代詩の世界とかでは見られないですもん。岡井隆くらいのベテランが、若手の作品を気にしてたりするのも凄いことだと思うし。歌人はみんな、はたから見ると、仲がよさそうでいいよね。そこが弱点だとも言えるから、諸刃の剣なんだろうけど。
 私自身は、自分の好きな短歌っていうのがあるんで、そういうものに関して貢献したい気持ちはあるんだけど、さっきも言ったように歴史に名を残そうとか、短歌界全体をどうにかしようとか、そんなことは考えられないんで。真心ブラザーズの最近の曲で、死んだあとも名を残すなんて欲のかきすぎだ、って歌ってるのがあるんですけど(枡野注/曲名『人間はもう終わりだ!』)、ほんとにそう思いますね。あの曲の歌詞の、ほかの部分にはあまり頷けなかったんですけどね。人間はもう終わりだ! って言ってしまうのは、逆に楽観的な感じがします。まだまだ終わらないから、大変なんだと思う。
     三十三歳と二十歳
 皆さん、まだ二十歳ですか。人生はこれから。大学生だし選択肢がありすぎて大変そう。私なんて選択肢がなくって、もうこうするしかないって道を歩いてきただけで、非常にわかりやすい道筋で、結局やりたいと思ってたことはみんなやってるんでね。すごいシンプルな人生だって思いますよ。この先はわからないけど。私だって「人生はこれから」なんですけど……。
 十代のころにやりたかったことで、実現してないことって、ほとんどないんですよ。むしろ、やろうなんて思ってなかったことなのに、今やってるってことも多くって。テレビなんて出ようと思ったこともなかったのに、なんで出てるんだろうと思いながら出てるとか。あと、書こうと思ってなかった本が書けちゃったりね。そういう感じなんで、今はもう、手持ちのネタをさっさと全部出してしまって、まっさらの状態から始めたい気がしてますけど。
 わりと第一志望は譲らないほうですね。ずっとファンだった漫画家の南Q太と結婚するなんて、自分でもびっくりですよ。知り合ったころはすでに別の人と結婚してたからねえ。加藤千恵さんの本も、こんなに早く、ここまでイメージどおりの形で出せるなんて思ってなかった。昔は、こんなことしたいと思ってもうまくいかなかったけど、今は、こうしようと思ったことは実現するようになってきましたね、予言もあたるようになってきたし。短歌集を文庫化したいと思ったら、文庫化したし。こうしたいと思って、できなかったことはないですね、最近。欲がないせいもあるけど、自分の能力との相談ができるようになってきたんだと思う。これはできる、これはできないっていう判断力が身についてきたんでしょうね。これくらいなら自分には絶対できるし、できなきゃ駄目っていう意識が強いんだと思う。これからどうなるのかはわかんないので、まあ、見守ってやってください。そうだな、「見たこともないような本」がつくりたいですね。
      谷川俊太郎と橋本治
 五島:最後に、枡野浩一さんの本をまだ手に取ったことのない人のために、何か一言お願いします。
 枡野:えーと、短歌集『ハッピーロンリーウォーリーソング』が角川文庫から出てます。二冊の単行本を一冊にまとめた文庫本で、お得ですから読んでほしいですね。うーん、このインタビューを読むのは「早稲田短歌」を手にとる人たちでしょ。じゃあ筑摩書房の『かんたん短歌の作り方』を読んでほしいですね。枡野浩一と意見がちがってる人にこそ読んでほしいです。枡野浩一はこう言ってるが自分はこう思う、って考えるための材料として読むと、すごく役立つ本だと思いますよ。反論するにしてもまず読んでほしいですね、買わなくてもいいから。立ち読みでも図書館で借りてでもいいですから。嘘、やっぱり買って! 自腹切らないと、真剣に読まないでしょ。
 橋元:我々も特に結社だとか、短歌集団だ、という意識はあんまりないですね。一人一人は一人一人だ、という意識がわりとあって、個人がそれぞれに基準を持っていてそこを超えるかたちでは干渉しないですね。
 枡野:そうですか。私はですね、〈歌人のふりはしてるが/私は歌人ではない〉(枡野注/谷川俊太郎の詩のもじり)というのが、今の自分の気持ちにはぴったりかなあと思ったりしてますね。歌人ではなくて何かというと、じつは短歌パフォーマーなんです。
 橋元:最終的にジャンルを問わないところにそもそもの動機があるというか、たとえば世の中に対してある種の感度がある、というようなことが根本にあって、その表現手段として一時的に短歌があった、と。
 枡野:なんかねえ、自分がめざしたい人たちっていうのは、おこがましいのを承知で挙げるなら、寺山修司とか谷川俊太郎とか橋本治とかなんです。彼らは、なんでもやってるじゃない。私は、あの手この手で何かを伝えようとしているだけだから。谷川俊太郎さんとお目にかかったときに、「枡野浩一は橋本治の再来だ」って言われて、光栄でしたよ。あんな存在感の書き手になれたらいいなと。まだまだですけれど、資質としては近いところがあると思ってます。こころざしだけは大きく持って、遠くをめざして、歩いていきたいです。
 一同:どうもありがとうございました。
(枡野注/「早稲田短歌」編集部がまとめたインタビュー原稿に、枡野が加筆訂正しました。2002年4月1日脱稿)
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