::YOUに関するノート 〜「学生短歌大会2001」の報告を兼ねて〜 五島諭

      学生短歌大会

昨年の八月、京都で「学生短歌大会2001」が開催され、主なイベントとして、パネリスト六人(天野慶、石川美南、五島諭、澤村斉美、永井祐、文屋亮)による公開歌会と、「〜学生短歌の現在〜相聞からのアプローチ」と題されたシンポジウムなどが行われた。
公開歌会ではとくに、
  足跡を残して歩くようにしてハンドアウトが配られてくる  西之原一貴
  砂時計の砂をかぞへてかたみみにたまりつづくるちひさきむくろ  橋元優歩
  雲が消え別にかなしくないぼくとかなしいのかも知れないいとこ  五島諭
  目を閉じたときより暗い暗闇で 後頭部が濡れてるような感じ  永井佑
  てのひらが我を覆いたり段々と背ぼね反れゆくアスパラの夜  松本隆義
  さびしさは覚め際にある君の手が桜の花弁を追いかけていた  澤村斉美
  さつきから日に二度洗う洗濯機湿気た線香花火を捨てる  前田幸輔
などといった歌をめぐって活発な意見の交換がなされた。普段は活動のフィールドが異なる者同士が、おなじ歌に関してさまざまな角度からアプローチし、議論したところに面白みがあったのではないかと思う。
 小林久美子さん、正岡豊さんをお迎えしてのシンポジウムでは、各大学で事前に募集した相聞の場面に関わる歌(応募総数36通・応募作品数130首)と、パネリスト六人(小林久美子、正岡豊、天道なお、西之原一貴、西村正人、松澤俊二)がそれぞれ作成したレジュメをもとに討論が行なわれた。それらの資料を見ても、相聞に対する表現のアプローチはとても多様で、このテーマ自体の奥の深さを強く感じさせられた。まとまった議論をするには的がやや大きすぎた感もあるが、学生短歌の現状を解釈する上で、参考になる視点も数多く出された。
 たとえば松澤は、万葉集の相聞歌と今回集められた作品を比較検討し、「近代的自我」や「個性」といった概念が現代の相聞歌に与えた影響についての考察を試みた。正岡は応募作品集全体に前の世代への接続感のなさが認められると指摘し、さらに表現上の特徴として、極端な固有名詞・極端な比喩への抵抗感、皮膚感・生活感への希求などを挙げていた。そういったパースペクティヴを持ち込む方法に対し、討論の最後に小林が、一首一首の背後にどのような人間がいるのかが最終的に重要なのではないか、という旨の発言していたのが印象的だった。

      距離の問題
 
 さて、今回の大会を通して最も活発に意見の交わされたテーマの一つに、相聞作品における距離感に関する問題があったと思う。これは、大会のホームページ上での事前討論の時点からすでに上っていた話題である。距離感に目を向けること自体は別段新しいものではなく、この文章に深く関係しそうなところでは、『〔同時代〕としての女性短歌』(河出書房新社・1992)所収の座談会(沖ななも・河野裕子・道浦母都子・永井陽子による)で河野が、壇裕子や塩崎緑を例にあげながら「以前は一体となりたいとか、奪うとか奪わないとかいう力関係でドタバタやっていたところが、距離をおいて、その距離の関係性の中で自分たちの相聞を詠んでいる。」と発言している。
 シンポジウムのレジュメにある、西之原の「恋愛という関係のなかでの微細な違和感や齟齬を描写」する作品が多くつくられているという指摘や、西村の「肉体の接触の実感を詠った歌が少ない」という意見も、先の河野の発言と発想を同じくしていると言えそうだ。こうした距離感は、相聞の対象に対する眼差し、感覚の違いに起因していると思われる。タイトルでは、「君」「あなた」「汝」といった二人称を含みながら、さらに広い意味での相聞・志向の対象を示唆するものとして「YOU」を用いた。それゆえYOUは作者にとっての本質である、という言い方もできるかもしれない。これから、個々の作品を取り上げながら、YOUの性質について考えてみたい。以下は、断片的にすぎるのかもしれないが、「今」の個人的な立ち位置や体感に最大限忠実であろうとした、YOUに関するノートである。
      YOUというアドレスとメッセージ
  海のあることがあなたを展(ひら)きゆく缶コーヒーに寄る波の音
  艶々と果物の種テーブルにおまえが吐き出したこの夏の  澤村斉美
                   (シンポジウム資料より)
 これら澤村の作品は、河野たちのころの「一体」感とは明らかに感覚を異にしている。一体感というのは、YOUが「君」「あなた」などと歌の中で名指されるその場所(端的には肉体か)と同一であるという確信に依拠していると思われる。そのような条件のもとでは必然的に、相聞のメッセージ。はある特定の場所(アドレス)へ向かう。河野自身の作品を見てみよう。
  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか  河野裕子
                             『森のやうに獣のやうに』
この歌では二句目以下の一首の核となるメッセージは、初句の「君」へと収斂していく。
  また今日も指ふれたから細筆で君の名を書くひらがなで書く  田中克尚
  死に果てし人より遠しうつそみに生きつつ二度と会えぬお前は  西村一人
                        (それぞれシンポジウム資料より)
学生短歌大会に提出された中でもこれらの作品では、YOUと歌の中の二人称との同一性に対する疑いがないという点で、河野の作品と類似しているといえる。田中の作品において、「君」・「君の名」・そしてYOUの性質の同一性は揺るがないように私には思える。西村の言葉は決して届かない分、切実だが、それは現実における距離の遠さのみに基礎を置いている。ここに引用した三首はどれもみなとても好きな歌だ。だが私はその前提の部分に共感することができない。
もう一度澤村の二首に戻ろう。
海のあることがあなたを展(ひら)きゆく缶コーヒーに寄る波の音
この歌においてはもはや、YOUは二人称「あなた」という枠(肉体)と同一ではない。個体としての「あなた」は傍にいるのだろうが、志向の対象であるYOUは展けて(逃げて)ゆく。展けてゆく方向を思わせる「海」こそがYOUであるようにも思えてくる。澤村の希求はそういったものへの、静かではあるが確実な視線に現われている。だから「あなた」へ向かう明確な言葉はない。言葉は追いつかないのだ。この一首を読んだときに感じる距離感は、そこに由来していると考えられる。澤村にとっての「本質」はそこにあるのだと思う。
  艶々と果物の種テーブルにおまえが吐き出したこの夏の
主体は「吐き出」された「果物の種」を通してのみ「おまえ」と繋がる。そしてここでは「この夏」が先ほどの「海」と同じような役割を担っているように見える。言葉(措定)の届かない位置に「本質」はある。
 メッセージについて考えるとき、もう一首注目したい作品がある。
  のどの奥く、としめつけてその声を遠くのきみに置くようにせり  水野ふみ
                           (シンポジウム資料より)
作英主体の「声」は確実に「きみ」へと向かっている。だが、注意したいのはその「声」が言葉やメッセージではないということだ。発話から世界を措定していく作用・「意味」を取り除いた、純粋な「声」だけが「きみ」に届くことができるのだろう。
      
       YOUをめぐる前提とパフォーマンス
 
  また人を殺めて醒めき薄明にわたし一人が生をもつこと  松島綾子
 松島の作品は相聞ではない。だが、相聞の前提となるべき部分がこの一首に集約されているように思う。逆にいえば、この地点を通過した瞬間、すべての発語は相聞になる。「わたし」は「人」を限りなく否定していく存在だ。世界には「わたし」ひとりだけしか存在しない。なぜなら出会った瞬間に他者は「わたし」に捉えられ、殺められてしまうからだ。そう自覚したとき、その「醒め」た場所からすべての志向性は生まれるのだ。
            * *
 今回のシンポジウムの資料の中には、こうした前提の上に立ちながら、新しい方向を切り開く可能性を持った作品もある。その一例をここに挙げてみたい。
 
  ねえダーリンセブンスターの空き箱をトランシーバーにしてあそぼう  天道なお
                          (シンポジウム資料より)
天道の作品においてはパフォーマンスが重要なテーマになってきている。煙草の空き箱のトランシーバーは、実際にはまったく使い物にならない。何のメッセージも伝えない偽もののトランシーバー。他者とのコミュニケーションの不可能性が前提となっているのだ。その上で、何らかのパフォーマンスをしていこうとしているところに私は強さを感じる。
  告白にOKならばすぐ僕と8番線まで走ってください  秋元裕一
                           (シンポジウム資料より)
秋元の作品においても、その主題は一体感やコミュニケーションではない。むしろパフォーマンスそれ自体に主眼が置かれていると言える。こういった作品が今後どのように評価されていくのか、興味深い。

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