::小池光の昭和末年  岡本 潤
 短歌で日記をつける。これまで私はそうしたかった。しかし短歌というとなにか特別なことがあったときに詠むものという思い込みがあったせいか、二の足を踏んでいた。小池光の歌集『日々の思い出』(雁書館 一九八八年)はそんな私の背中をぽんと押してくれたようである。この歌集は基本的に一日一首で構成された、昭和六十一年十月から翌年九月までの「日記帳」である。連作や雑歌も収めれられてはいるが、「日記帳」としての試みを私は評価したい。そこには「短歌の記録性」が発揮されているからである。
  十月五日(日)
びりけつになりて我が子が卑屈なるおもざし見せて寄るをさびしむ
  十月二十二日(水)
佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず
 十月二十八日(火)
文鎮に磁石を置きてけふ書きし推薦書三、見込証明書一
  
 十二月七日(日)
こずゑまで電飾されて街路樹あり人のいとなみは木を眠らせぬ
 十二月二十八日(日)
 夕方を帰りてくれば隣家なる今井さんの家は既に引越(こ)したり
 日常詠といってはそれまでだが、日々の感懐が過不足なく表現されている。小池は教師であるが、それを知らない読者でも読み進んでいくうちに自然と教師であることが理解できるようになる。第一首目は運動会で「びりけつ」になった「我が子」に対する愛が感じられる。第二首目の歌はこの歌集を読む以前から知っていた。初めて読んだとき相聞歌かと思った。中学か高校、または大学時代の小池が、好意を抱いていた「佐野朋子」に会いたかったが、会えなかった悔しさを「ばかころしたろ」と言い切ったのかと思った。しかし「佐野朋子」は教え子と考えるのが適当だろう。第三首目は教え子の受験のために必要な「推薦書三、見込証明書一」の描写である。第四首目ではクリスマスを前にしたデパートの前の「街路樹」を詠んでいる。第五首目は帰宅時に朝にはまだいた「今井さん」一家が引越していたことに対する驚きを詠ったものである。さらに時系列に沿って歌を紹介したい。
  昭和六十二年元日(木)
気の向く折りをりに読み来て断腸亭日乗も昭和二十年に入る
 一月六日(火)
 ファミコンはいつ買つてくれるかと電話にておもひつめたる声で言ひけり
  八月九日(日)
 真昼間の寝台ゆ深く手を垂れて永田和宏死につつ睡る
  九月二日(水)
 二学期の始まりて教師われ思ふ学校は一にけたたましき処(ところ)
  九月十五日(火)
 「敬老の日」に行きたる母がもらひ来し饅頭ふたつ食ふほかになし
 特に解説の必要な歌はない。第三首目は詞書によると「短歌人」全国大会が京都の「くに荘」であり、友人で歌人の「永田和宏」を対象に詠んだものである。小池以外の歌人にとってもあてはまるが、歌人の創作現場はおもに家庭と職場である。この歌集には結婚以後の歌が収められているため、妻への相聞というより家族愛を詠ったものが多い。さらに職場が学校であるため、教師の目から学校行事や生徒をみつめている。逆にいうと、「日記帳」だと突飛な発想や夢想は詠みにくくなっている。
 一方、連作(十九の連作と三つの雑歌と題した連作)にはかなり幅のあるものが多い。
 ヘミングウェイが着てゐたやうなセーターを夢想するころ元気になれり
 鬼太郎の父たる者の哀楽は子の手袋に入りて眠りぬ
 むかしわが万引したる一冊の島尾敏雄は純情深き
 情緒的に戦争をほめてやまざりき情緒的に戦争を否定しやまざるが如
 夏来ればかならずおもふ三鬼の句噴泉の尖(さき)にとどまるくれなゐの玉
 一読して意味のとりにくい歌が多い。小池個人の体験にもとづいていない部分が多いからと思われる。第一首目の「ヘミングウェイ」のセーターが何の象徴であるか分からないし、第四首目はどういう状況で詠まれたのか分からない。第五首目の「三鬼の句」とはいったいどんな俳句なのか。しかし「日記帳」ではなく連作や雑歌であるからこそこういう「遊び」がより容易になるのある。
 詞書のあるもののみ種明かしをすると、第四首目は靖国神社を散策したときに作歌したものであり、第五首目は「噴泉」を見て西東三鬼の「おそろしききみらの乳房夏来る」を思い出して詠んだ歌である。短歌の形式は多様化しており、これこそが短歌であると定義するのは困難である。小池は短歌を「額縁をもつ詩型」と位置づけ、「日付という額縁」が想像力をかきたてると考えている(「あとがき」)。私の考えによれば、日付とは一日いちにちの連続であり、ハレの日もあればケの日もある。小池は「日々の思い出」から「日付の写る写真」を意識していたと書いている。日付がケの日も含む、まさに日常であるからこそ<芸術写真>ではないと彼は述べているのである。
 私はときどき写真展に行ったり、写真集を見たりする。これまで私は歌集を読むときに美術館で芸術作品を鑑賞するような態度をとってきた。これからは文学作品を読むという気負いを捨て、通勤電車の中で新聞を読むように歌集を読んでいこう。なぜならば短歌はたしかに報道写真という一面をもつものなのだから。
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