穂村弘インタビュー

Q:穂村さんが『短歌という爆弾』(短爆)を書いてみて、いろんな人、歌壇の人や一般の人の反響があったと思うのですが、書いてみて感じたことをお聞かせください。

穂村:僕は、だいたい書いたものを読んでもらえば分かると思うけど、コントロールのきかないタイプなんです。歌もそうだし、文章も、どこにどういくか自分でも分からない。特に見通しのないまま書けるものを書いていったんだよね。一番最初は、後半の、すごく短歌についてねちねち書いているところがあるでしょ。あそこだけをずっと書いていて、難解なものになっていましたね。一気に書いたらそうなってしまって。でもやっぱりなるべくたくさんの人に読んでほしいっていう気持ちがあるのと。あとは、多少まとまりが悪くなってもいいから、自分のいろいろな要素というか、キャラクターを全部とにかくだそうと、それで入門書の形にしたわけです。

やっぱり核になっている短歌について書いている部分が、あの文体と内容っていうのがあまりにも、分かりにくく難しいんじゃないかという不安がすごくあって。自分としては書いているときに正しいっていうか、いいことを書いているっていう確信はあるんだけど、入門書だと思って読んだ人が、あれをどれくらい受け入れてくれるものかっていうのは、やっぱり非常に不安で。従来の入門書っていうのは全然違うわけだから、言ってみれば皆手加減して書いているわけだよね。だけど僕は全然コントロールが効かないから、加藤治郎さんにこれは入門書じゃなくて破門書だっていわれるような内容になっちゃってすごく不安だった。

で、実際に出してみて、どうだったのかというと、好評でした。売れたし、好評だったんだけど、意外にフィードバックがこなくて。もちろんそれを読んで始めましたという人がたくさん出たから入門書として成功したんだけど、でもそれはたぶん、短歌の魅力を知ったということとは、ずれていて。異様にテンションが高いでしょ、明らかに人間的に破綻しているところとかも隠さないようなか感じで書いているから。そういうものに対する、ほら人間はロジックが伝わらなくても、熱量とかパッションというものは必ず伝わるから、そういうところで意外と人を説得できたのかな、と漠然と思っている。論理的にも正しいことを書いてあるはずだけど、最終的にというか最初に、人間がこれはと思うのは、これを言っている人がどういう心でそれを語っているのかということに、気づくでしょ。やっぱり初心者だと思って手加減しているなと思えば、手加減されたい人しかそれによって短歌をはじめないわけで。短爆を読んで始める人は、初心者だからといって手加減してほしい人は絶対にそれにはひっかからなくて、自分が何者かは分からないけど、自分はかならず何者かである、輝く何かが自分のなかにあるという、そういう根拠のない確信を持った人でなければ、短爆には興味をもたない。で、そこを批判もされていて、大辻隆弘さんが、そういう一種の洗脳っていうのは危ないのではないか、と。

あとは、詩人とか、他ジャンルの表現者に、好評でしたね。これは、僕は短歌あたまって呼んでいるけど、野球なんかでもほら、野球あたまっていうのがあるんですよ。学校の勉強とかはできなくても、野球というあのシステムのなかでは、異様に頭がいい人。もちろん皆運動神経はいいけど、当然頭脳だって要求されるじゃない。その瞬間瞬間の、野球というもののとらえ方で、すごく勘のいい人っていうのがいて、短歌にもそういうひとがいるんですよ。例えば河野裕子さんなんか典型だけど、他のジャンルの表現者になることは、考えられなくて、どうみても短歌だなっていう、短歌固有の力を出せる人間。そういうような短歌あたまを僕は持っていない。いつも、歌人から君は歌人ではない。っていうふうに言われるような感じで。確かに言っていることは分かる。短歌勘はよくないし、短歌あたまじゃないから、短爆のアプローチっていうのは、基本的には、ものすごく偏執狂のようなアマチュアが短歌について書いた本ていう感じに近いと思う。だから、そういう意味では、逆にいうと、他ジャンルのプロとか、短歌についてはアマチュアだけど、何か他のある普遍的な表現について関心のある人には通じる。通じたような気がする。

歌人に一番通りが悪かった。プロパーな歌人。多分、どうかな。はっきり明確な肯定的評価をしてくれた人っていうのは、あまりいない。今の角川短歌年鑑で、岡井隆さんが言っている。「わたしに決定的なのは、『短歌という爆弾』を読み切れてゐないといふことで、藤原龍一郎にいはせると、この穂村の歌論集は、画期的な一冊だとのことだが、これがわたしには逆にわからない。やはり人間の理解といふのには、限界があるのだらう。その限界は守っていくのがいいのだらう。わからないことは、わからないといふべきなのだらう。」何度も分からないと言ってますね。分からないという声がわりと一般的なんですよね。ただあれはわりと精密に読み込んでいるじゃないですか、歌を。その読みが当たっているかどうかっていうのは、ごく精度が高いと自負しているんだけど、でもそれが分からないっていうのは、なぜなんだろうっていう。こっちのほうもちょっと分からない。ただの論理の構築であれば、分からないこともあるけど、現にその都度、例をあげて具体的にそれを読んでいるではないか、っていう気持ちがあります。

Q:第三章の内容なんですけど、あの中でいろいろな言葉がありましたよね。心を一点に張るだとか、知恵の輪とか、愛の希求の絶対性とか。それで穂村さんの短歌というのは、短爆の文脈のなかでは、どういう風に位置付られるのでしょう。

穂村:それは、非常に嫌な質問で(笑)。そうなんです。あの本を読むと、その疑問は当然湧く。実は、正直言ってあまり考えなかった、自分のことを。自分のことを考えると、あそこで書こうとした世界の像が歪むっていうふうに思っていて、だからあの本は、意外と評価の軸っていうのが、すごくはっきりできていると思う。あの価値観でいう最高の歌人っていうのは、葛原妙子なんだよね。

Q:あの価値観というのは?

穂村:つまり愛の希求の絶対性が強ければ強いほど、すぐれた言葉が生まれるっていう価値観で言うと、葛原さんが最高なんだけど、ただ当然ながらそんな体系なんていうものには、いくらでも矛盾点や例外があって。じゃ斎藤茂吉がいるよね、斎藤茂吉と葛原妙子どちらが大きな歌人かと問われたら、それはやっぱり茂吉なんですよ。それはごまかしがきかない。じゃ短爆のあの世界観では茂吉はどう捉えるのかというと、あの価値判断の軸ではその逆転現象が説明つかないんですね。でもそれはあの時点では、しょうがないというか。これからそれについても書くつもりで、書いたんですよ。

それからもう一つ大きな点は、自分はどうなんだってことで、これはちょっと、すぱっとした答えができなくて申し訳ないんだけど、例えば、もう一つの短爆の特徴というのは、取り上げている歌人というのは、圧倒的に女性が多い。男に冷たいんだよね。それも前から分かっていて、「<わがまま>について」っていう歌論を書いて、あの中に、男が出てくるのは、終わりのほうに加藤治郎と荻原裕幸がつけたしのように出てきてっていうような感じで。僕が熱くシンパシーを持って語れるのは、女性に対してだったんです。だけど僕は、自分は女性じゃないけど、歌の作り方も、わりと中間的なところがちょっとあるんじゃないのかな。本当の女性、っていうと変だけど、そういう風に、マグマみたいなもので書くことができないし、かといって荻原さんのように、定型観が上のほうから切り込むように歌に入ってくるっていうようなそういう作り方でもないですよね。ただ自分がどう書くかっていうのを考えた時に、その愛の希求の絶対性ってものが最強のカードなんだっていうことを、認識あらためて、あらためてあの本書く時に認識したわけだから、歌を書く自分にも反映はあるだろう。

『シンジケート』って第一歌集は十年前の歌集で、あの時点では、短爆に書いたロジックっていうのは僕は全く持ってなかったけど、若さっていうのは特殊だよね。非常に。つまりそれ自体が切り札になってしまうわけで。なぜかっていうと、短爆に書いた通りだけど、青春っていうのは一種の非常事態であって、万人に訪れるからあまりそういう印象がないだけで、明らかに特殊な状況なんだよね。たぶん生命体として。それがものすごくその人のテンションを上げるし、あえて言えば、愛の希求の絶対性を強める。青春期の人間っていうのは、絶対それが強まっている。だから水原紫苑さんがよく言っているけど、生徒の書く歌は、どんな下手な歌でも絶対おもしろいって。それは、もう非常事態にあるから、それのほうが上位にあるわけよ。短歌的なセオリーよりも、非常事態にある人間が書いたっていうことが。だから、優れた歌人ていうのは、紫苑さんもそうだけど、常に非常事態に心があるっていうことだよね。十年前書いていたとき、自分はそういう意味で、非常事態にあったと思うけれども。でも今自分がそういう青春の追い風ってものを失っているわけだけど、それでもなおある非常事態性を追い求める。

その非常事態性ってのは、全然特異なものではなくて、極言すれば、生きているってことが非常事態なんだっていう世界観なんだよね。この世に生きているってことは、全然自然なことじゃなくて、ものすごく特殊な異常なことであり、青春が特異なのは、その異常さがただ端的にそのポイントで出ているだけで、実は何歳であっても、その人が生きて呼吸しているっていうことは、他に比べるものがないくらい特殊な出来事なんだという価値観。だから、歌っていうのは、どんなにささやかなものを詠んでも、生そのものが異常に特殊なものだから、つまらないってことはありえないわけで。それこそ茂吉や葛原が、どんなにささいな目の前のものを詠んでも、必ずおもしろいじゃない。それっていうのは、まあそういうことなのかなっていう。あんまり直接的な答えになっていないけど。

Q:そうすると、もう一つ。水原紫苑先生が出ていらっしゃったかばんの座談会を読んだのですが、あの中で穂村さんと紫苑先生が一番対立するところが、あの「美」だと思います。あの「大いなるもの」と交歓をするというような短歌観がけっこう短歌の世界で大きいじゃないですか。たとえば葛原妙子であってもそこに脚を突っ込んでるという。

穂村:水原さんの主張がそうですね。

Q:それでそのそういうものとの穂村さんの接し方っていうのはどうなんでしょう?

穂村:まず、僕は自分に対する執着が強いタイプで、まあ自己愛が強いし、自己保全本能が強いしエゴイスティックなタイプなんでそうすると和歌に対する理解がぼくは非常に鈍いんだけれど、あれってやっぱり自分というものキーにしている限り感受しきれない領域が広いんだとおもうのね。で、僕は近代以降になると急に歌が読めるようになる。正岡子規以降になると。ということはそれは逆にいうと「大いなるもの」はあるんだろう、と僕も思う。なぜかというとおなじ五七五七七で自分がこんなにある時期以降のものを、理解できるのは最後の100年だけでそこから先の1000年はわからないっていうのはもうそこからが違うものによって制御されているからだっていうのが逆説的にわかる。「大いなるもの」って言ってもいいし。ただそうは言っても自分は自分だから検証する時も自分は自分という前提で検証するしかないので、つまり納得行かない場合はどこまでいっても納得がいかないことがあるでしょう。だから僕はいずれ和歌につぃても自分の考えを決めたいと思っているけど今のところよくわからない。真善美というものがあるじゃないですか。ぼくはその中で何に一番関心があるかというと、というか関心があるのは一つだけで、「真」。善にも美にも全然関心がない。短爆読むともう明らかだよね。本当のことっていうのが何かとか。だからぼくは「真」にしか関心がないし。あと意味にしか関心がない。

我々が生まれてきたことの意味が何かだけ知りたい。それは「短歌は意味じゃない」っていうレベルでの意味じゃない。でも最終的にじぶんがなにを残したいかっていったら自我であり意味でしかない。それを言葉であるとか大いなるものであるとか音楽性であるとかいうのは短歌のある枠の中では了解するけど、本当に最終的にそれを残したいていうのは僕にはぜったいないし、そう言っている人もそこまで枠を広げて言えるだけの感覚で言っているとはとても思えない。だから僕はあくまでも自我であり意味によってその大いなるものを測りに行きたいっていう気持ちがある。

Q:もうひとつ聞きたいのが愛の希求の絶対性が根本的なところにあると思うのですが、あの、抽象的になるんですけど「愛」ってなんでしょうかね?・・・。

穂村:なんなんでしょうね。まずね、あの短爆の中で使っているタームっていうのは、まあ憧れって言ってもいいんだけれど、何に対する憧れかって言うと「今はまだないもの」に対する憧れ。非在のものに対する憧れのことを愛と言ってもいいとおもいます。愛の希求の絶対性って何かっていうと、あれは結局愛の不可能性のことをいっているじゃないかっていうのは全くそのとおりで、非在のものへの憧れっていうのはそれが顕在化した時点で止まるわけです。具体的にいうと素敵な恋人っていうものを夢見ているとき、素敵な恋人が現にできたら、そこでそのモチーフはストップするでしょ、わかりますよね。歌の世界でも特に若い女の子とかの歌はそうだけど、「彼がこんなに冷たい」と。そういう歌がつまらないのは、こいつは恋人が優しくしてくれたら歌なんかいらなくなるよっていうことがわかるから。それは、愛の希求が全然絶対的になってない。ということは、初めっから僕の言う意味での愛の希求の絶対性っていうのは、絶望が前提になっている。絶対にそれは成就しないから。葛原なんかそうでしょ? 旦那がいたって、あの飢餓感は異常であって、ある歌で、旦那が部屋に帰ってきた。旦那は眼鏡をかけてた。眼鏡のガラスに、一点血が付いている。(旦那は)外科医だったから。で何て言うかなあ、そんな風に旦那を見るって言うのはおかしいじゃない、まるで死神みたいじゃない、その旦那っていうのは。それほどその肉親への愛情みたいなものを歪ませるほどの愛の希求が彼女にはあるんでしょ。だから、その憧れみたいなものだと思うんです。そんな答えでいいでしょうか。

Q:さっき真について感心があるって言われたんですけど、真に関して、どういうスタンスで向き合っていくのか、例えば香川ヒサさんなんかは…

穂村:ああ、ええ、分かりやすい。

Q:ああいう風に向き合ってるんですけど、「真」っていうのと、穂村さんの「愛の希求」っていうのをどういう風に絡めているのですか?

穂村:そうですね、それは、まず初めにあったのは「愛」じゃないですね。本当のものっていうのは、意味を追求したいってい気持ち、つまり、子供のころのことで言えば「宇宙とは何だ」とか、「時間とはなんだろう」とか。そういうことに対して僕は執念深くて、結局それは「生命とは何か」「命とは何か」っていう問いに、最後は行くと思うんです。それをずっと考えていったわけなんだけど、本当にそれを考える能力がある人は哲学者になるよね。でも僕はそんな能力はなくて。でも、そういうドライブ感はすごくあったの。哲学や世界の意味を知りたいとかそれに対して「言語感覚」もあったんですよ。短歌を書けたり読めたりする能力が僕にはあって、「真、本物とは何か」って考えてもそれは限界があるんですよ。ニーチェみたいに考えられない。でも僕には短歌があったから「この歌はいいよね。」「これはダメだよね。」と思うと、「その差は何か」っていう風に思うでしょ。なぜこっちはよくてこっちはダメかってことを、現にあるもので味見をするようにねちねち考えていくと、「この差は愛の希求の度合いの差だ」っていう風に思ったわけ。それでたぶん「愛」っていうことが僕の頭に浮かんで。

もう一つは、僕はすごくエゴイスティックな人間で、他人を愛せない。それから他人を許せない。対人的にすごく滑らかな感じがするのは、反転して出ているからであって、本当は僕は他人を許したりできないって思うんですよ。そうすると「愛の無償性」がある人間にすごく圧倒される。現実の恋愛の場面なんかであの、本当に愛の無償性を持った人間っていますよね。林あまりとか、枡野浩一もそうだなあ。ああいうものに対してすごく圧倒されるっていう気持ちがずっとあって、「真」っていうものをずっと求めていくうちに、現実の自分の恋愛関係における「愛」とか、あるいは具体的な短歌を通して、ここにある差は「愛を求める力の差」だって思い始めたわけね。そんな順番ですね。

だから、もし生命の意味を問うのに「愛」っていうファクターが重要じゃないと思えば、僕は全然「愛」についてしゃべってないと思うのね。短爆についてもそういったタームは全然出てこない。だからまず「愛」があったわけじゃなくて、まず「意味」が知りたい。その人間の「生」の意味と「愛」っていうのは絶対関わっているっていう風に。もし短歌とか具体物がなければ、さっき君が「愛って何ですか」って聞いたとき口ごもったように、それはそれ自体ふわふわしていて、とても恥ずかしく、踏み込みがたい領域じゃない。でも、具体物がある場合はこれはもう絶対「愛の違い」と言うしかない。っていうことに確信が持てるわけ。かなり。そういう感じかな。だからほら今純粋な哲学者って少ないじゃない。数学者だったり臨床の精神病理学者であったり、具体物にあたっていくうちに意味を追求するタイプの人が多いでしょう。多分そういうのに近いんじゃないのかな。

Q:短歌っていう形式そのものに関して限界を感じたことはありますか?

穂村:限界っていうのはどういうことですか?

Q:たとえば「愛の希求」っていうそのものを短歌という形式に全部反映しきれるかということに関してです。

穂村:そういう不安はなかったですね。直感的に愛の希求は万能だという感じがして。つまり短歌であっても、フィギュアスケートであっても、野球のプレイヤーであってもボクサーであっても、表現と生命の活動のすべては「愛の希求の絶対性」によって輝く。という確信があったから、短歌では不自由だという不安は全然なかった。

具体的な短歌に対して不満をもっているのは、全く短歌を知らない人に山中智恵子――すごく難解だけど素晴らしい短歌をぱっと見せたときに「わからない」ということが僕をかなり不安にさせた。つまり最高のものが――車とか乗ってて、ラジオから音楽が流れてきて、「あっ」と思ってボリュームを大きくするときがあるじゃない。聴いたことがないけれど心がすごい動かされる。そういうものに対する憧れがすごくあって、短歌は「これがすばらしい」ってことを僕がよくわかっているのに、全然歌を知らないひとに見せて「すごい」と思ってもらえないケースがかなりあるということ。それがやっぱり苦痛なのかなあ。わりと現実的な不安ですけど。

Q:短歌は間口が狭いと思いますか。音楽とか絵画であったら言語を超えて楽しめますよね。

穂村:うーん、普通の意味で言えば間口が狭いと言わざるをえないだろうけど、小説をいっぺんに読むのは大変だけど短歌はとにかく視野に入る。あるいは今のネットみたいなものとの相性はいいよね。何十首も一覧できるとか。だからかならずしも一義的に間口がせまいとは思わない。ただそれを言うならば、日本語による言語表現自体が日本語を知らない人にとっては意味不明なものになっちゃうから、やっぱりそれは言語表現の悲しさでしょう。そりゃあミュージシャンとか、スポーツとか、そういう普遍的な感動に対する憧れは僕にもすごくあるけど。ただ自分は極端に言語型だったから。僕の獏の絵(注・短歌研究社臨時増刊号『うたう』掲載の穂村さんのイラストを指す)見たでしょ。無残なやつ(笑)。だから、ほかの能力が全然ないから、それほど選択の余地がないって感じだね。

Q:おはなしを変えたいと思います。最近の作品に関することなんですけど、明らかに変化があると思うんですよ。手紙魔まみの連作であったり、アトミックボムの歌であったり。さっき青春が終わったって言ってらっしゃいましたけど意識的にやってらっしゃるのでしょうか?。

穂村:僕はできるものなら一生青春をやってきたいという人間で、一生モラトリアムでいたいし、君らを見ていても学生だっていうだけで羨望のあまり憎しみを覚えてしまいます。要するに若いということは可能性があってまだ不定形でいられる。っていうことに対する執着がすごくあったから。だから逆にいうと僕が若いときは、その若さは自分ではそんなに意識してなかったけど、特に追い風になっていたタイプだと思うのね。青春歌集でしょ、『シンジケート』って。

逆にいうとその風が止まったとき、それに依存していなかった人に比べて、危機だね。僕みたいなタイプは年取ったら普通の歌人よりもずっと厳しくなる。これもほとんどもうコントロールなんてできないんだけど、まあもがくわけだよね。それでも何とか意味のある表現をしたい。それで、選択肢は割とシンプルな形でやってきて、現実とか、他者とか、死とか、そういうものを受け入れるのか否かっていうような問いになるでしょ。青春っていうのは、別に現実とか他者とか死とかを受け入れなくてもまだ、許される。君たちは。でも僕は自分が死なないと思っていたし、エゴイスティックだから他者っていうのは、いなかったし。もちろん現実なんて論外だよね。やなことばっかりあるから。それをどうやって受け入れるか、っていうところで葛藤があって。

アトミックボムは、BSの番組で広島に行ったときの吟行詠です。広島に行って僕はいろんなものを見たんだけど原爆ドームを見ちゃったのね。そしたらもう全然違う。他の景色とか広島のいろいろな風物とは全くインパクトが違う。もうこれしか歌うものはない。ってなってしまった。だからあえていえば、現実に負けたんだよね。そこで。原爆なんて関係ないよ、僕は広島に行ったって恋の歌しか歌わないよ、っていう風に思わなかったの。原爆ドームに負けたんだよね。あまりにも向こうがすごかったから、現実の、つまりそれは悲劇ではあるけれど、「現実のすごさ」っていうものをこっちに圧倒的に打ちのめすようなとこまで来たから、「ああ負けました」って思って、自分なりにこれに挑もうと。「現実をここで僕は認めよう」って思ったね。あのときだけは。それであのアトミックボムの歌を作ったんだよね。

で、手紙魔まみっていうのは、すごく微妙で、実際の人が手紙をいっぱい書いてくる。だからある種の「現実」であり「他者」だよね。でも、決定的なポイントとして「手紙魔まみ」は若いってこと。つまりあれはなんていうかさ、ドラキュラみたいな感じでこっちから見てさ。自分でもそこまで「若さ」に執着があるっていうのが恐ろしいけれどもね。「若い女の子」。自由な存在の、その言葉に触発されて歌ができる。そしてもう一つ大きいのは、あれは現実であり、他者じゃない?だから僕はその意味において「現実」を受け入れたことになるでしょう。それが、自分の無意識のもがいてもがいてこう試行錯誤するようなことの反映としてなんか出ていると思う。もちろんその前提として、自分が、青春の、若かったときに書いていたのと同じ言葉の使い方をしても絶対に「昔の歌みたいには書けない」ということを思い知るということがあるけど。

Q:ストーリー性ということですが、大滝和子さんはストーリーで手紙魔まみを読んでいるんですが、明確にストーリーを作ったような連作は、『シンジケート』や『ドライドライアイス』にはないですね。

穂村:うん、ないですね。できれば本当は、ストーリーをなるべく排除したい。なるべく排除したいのに、なるほどそうなってしまっていることが僕の苦しいところが出ていると思うけど。歌集なんかに載せるときは、今言ったようなものもストーリーにならないようにしたいと思うんだけども。そうだなあ。連作は皆さんはいくつご覧になったか知らないけど、必ず「ほむ」とか「ほむほむ」とか、僕がでてくる。向こうからの言葉として。あれは一種のなんか必要なことで、「まみの物語をそこで自分の物語に反転させよう」っていう意識かな。多分あれで一冊まとめようとしたとき、僕はそれをやろうとするだろうな。読者があれを「小説の短歌化」というようには全く読めないというふうに。そしてそこでいう「ほむほむ」っていうのは、現実でしょ。「僕」だから。そういう形で現実を受け入れようとするプロセスっていうのが生まれるんじゃないかなあ。

Q:またちょっと変わりますが、『うたう』という企画であるとか、『うたう』を見たり、枡野浩一さんの本を読んだりして、穂村さんも『短歌研究』の新春の企画で“インターネット上でやったりとか、一人が万能でやっていくことはできなくなっている。という状況がある”とおっしゃっていたと思うんですけど、これからの短歌の状況っていうのはどういう風になっていくとお考えでしょうか?

穂村:でも考えてみるとそのほうが普通だよね。つまり、小説家だって漫画家だって、ミステリー作家もいれば、SFの人もいる。短編の人もいれば、大長編書く人もいる。純文学の人もいればいろいろだよね。

一流の歌人というのは万能でなければならないということが、やはり短歌の特殊性だったんだと思うね。「万能」っていうのは、歌ももちろん書けて、評論も書けて、なおかつ他人に対するカリスマ性みたいなものがあって。テレビなんか出たときかなりうまく喋れなくちゃだめで、字書かされるから字がうまくなくちゃダメで…そういういっぱいあるファクターを馬場あき子とか岡井隆っていうのはクリアしているわけでしょ。和歌に強くちゃダメで、と。そういう無数の条件を、「万能」としてクリアできたのは、佐佐木幸綱さんまでだと思うね。でも、本来の詩人のスタンスからすれば、そっちのほうが特殊なわけじゃない。例えば「吟遊詩人」なんていうものを考えれば、万能の反対だよね。何もできないが、でも詩だけ書けるという方が、本来のイメージなんだよね。歌人は「啓蒙家」でもなくちゃダメで、「理論家」でもなくちゃダメで、かつ「詩人」でもなくちゃダメで、「歴史家」でもなくてはいけないっていう不思議なことがあった。だからそれがいよいよインターネットの登場によって、選択せざるを得なくなるよね。みんな、自分の武器は何なのか。あと、武器というか自分の関心というもの、自分がどうなりたいのか、っていうことを選択しなくちゃならない。それだけは確かなんだよね。

Q:穂村さんとしては、自分はその中でどういう風に振舞っていくか、などは考えていらっしゃいますか?

穂村:今言ったみたいに、実は僕は全然コントロールが効かないんですよ。「こうしよう」と思ってできるタイプじゃない、意外と純粋な詩人タイプ(笑)。だから「自分の関心に沿ってやっていこう」ということでしかない。その上でいま自分が考えていることっていうのは最初の関心――そもそも「世界の意味は何か」っていうところから、立ち上がったことの投影だと思うけど。

今、僕は「和歌が分からない」って言ってるけど、やっぱり歌人である以上は、和歌が分かりたいし、歌の発生の意味を自分なりに解きたい。なぜ歌というものがこの世にあるのか。「わたくし」として「大いなるもの」に挑みたい。「詩歌」っていうのは、「生存の意味」に挑まなくてはならない。けれども、逆にいうと、フォルム自体に関して言うと、「わたくし」は詩歌に挑まなくちゃいけない。だからそういう存在に僕は憧れる。憧れる歌人というのは、釈超空と塚本邦雄。彼らは詩歌に挑んでるでしょ。自我でさ。彼らは、昔の和歌の歌が読めるなんて言ったって、あれはただ本当に「自我」っていうものを、極限まで挑んだ結果っていうか。だから僕もそういう風に挑みたいという気持ちはある。

で、具体的なもの――どんなところに所属して、インターネット上でどんな活動をするのかっていうのは、僕はコントロール不能だと思うし、そんなに大きな問題じゃないと思う。「インターネットやらない人は歌人として成立しない」なんて全く思わないし、極端なこと言えば、どんな活動の仕方だってそのドライブ感、「未知への憧れ」とか、「愛の希求の絶対性」があれば、どんなに変則的でも必ず成立すると思うのね。逆に言うと、そういう人しか成立しないと思うのね。バランスを考え抜いて、そこから逆算して自分の詩が規定されるような人は結局ありえないわけだから、そういう人は実業家になればいいんであって……。

Q:またちょっとお話が変わりますが、他ジャンルのことについて聞いてみたいんですが。穂村さんの短歌を読んでて、やっぱり影響とまではいかないのかもしれないけど、「他の種類の芸術」っていうものに、どういう風なものに親しんでこられたのか、関心を持っているとか、同じ問題意識で同じレベルでやっていると思う方はどういうところにいらっしゃると思いますか?

穂村:えっと、自分が好きで圧倒的に享受したと思うのは、マンガですね。マンガは好きですね。マンガと電話しか今楽しみがないんですよ。それを聞かれてんじゃないですね(笑)。だから、マンガ、っていうのがありますね。で、あとはね。芝居とか映画とか小説とか詩とか、俳句とかについての経験はみんな並以下だと思う。並以下っていうか、表現者としてね。あんまり、すごく耽溺したっていうことはない。

Q:音楽とかはいかがでしょうか?

穂村:分からないですね、音楽そのものの魅力っていうのは分かっていなくて。僕、ブルーハーツがすごく好きなんですけど、それってほら、限りなく「音楽じゃない」じゃないですか。うまくいえないけど。「愛の希求の絶対性」とか。あの、ブルーハーツの甲本ヒロトと忌野清志郎がすごい好きなんですけど、なんていうのかな、魂に対する執着みたいなものがあるんですよ。だから、たぶんジャンルとして音楽が全然わかってるわけじゃなくて、彼らを見たり聴いたりしたときに、これはもうすごい愛の希求だということを感じる、絶対嘘がないっていうのを感じる。だから僕が音楽を聴いてるのを見てた親しい人が「あれは音楽を聴いてるんじゃなくて、薬を飲んでるようなもんだよね」っていう言い方をしていたけれどまったくそんな感じです。だから色々な音楽を聴きたいとかあんまり思わなくて、こう、いつまでもいつまでもぼくはブルーハーツを聴いていられる。だから多分そういう意味で他ジャンルの経験値が低いと思う。

Q:僕もブルーハーツが好きなんですけど、ちなみに何の曲が好きですか。

穂村:ああもうそれは、リンダリンダ、最高ですね、「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」というところで僕は……当時付き合ってた女の子の家に遊びに行ったらものすごい勢いでぼくをひっぱってビデオの前に座らせて「これをみろ」って言うんですよ、それは何だったかというと八十六年の日比谷野音でやった野音ライブ。

Q:CDにもなってるやつですよね。

穂村:そうそう。それをビデオで見て、まったくそのときまでブルーハーツを知らなかったんだけど、それを聞いたら涙がこう前方に飛んだんですよ。(笑)こんなものがこの世にあったんだと思って、で、それから巻き戻し巻き戻しで、夜までその一曲を何十回も聴いて、その間、その女の子は台所でいろいろ夕ご飯とか作りながら、全然何も言ってこない。ああ、俺にもそんな時があったのか。当時、1980年代っていうのは、バブルの全盛期で、そしてイメージと僕はよく書くけど、イメージというものが、ものすごく価値が高かったんですよ。心とかそういうものの価値はなかったんですよ。

なんでかっていうと、心っていうものは、心を語る人は皆嘘つき野郎ばかりだったから、単純に。だからそれから逆に刷り込まれて、心を語るものは、すべてダメだっていう風に僕たちは見ていたわけ。でもそれは、イメージっていうものは、どこまでも洗練されていくわけで、結局その洗練っていうのは、相対的なのね。全然絶対的じゃない。これよりも、この方が洗練されている、これよりもこの方が、洗練されている。で、ブルーハーツを見たときの衝撃っていうのは、心はある。そして、絶対的なものはあると。イメージがよりきれいとか、よりかっこいいとかいうことは、大した問題じゃないってことを、初めてそこで知らされた。

ふつうは成長するにつれて、そのことは、手放さざるを得なくなる。心なんてものの所在は分からない。だけど、リンダリンダを聴いたときに(笑)たとえば論理的に言ってもね、甲本ヒロトの歌詞ってそうだけど、「もしも僕がいつか君と出会い話し合うならそんなときはどうか、愛の意味を知ってください」っていう歌いだしでしょ。ところがその直後に、「愛じゃなくても恋じゃなくても、君を離しはしない。」って続くじゃない。なんでその直前まで、「いつか僕と出会ったら、愛の意味を知ってください」とかいうことを言っていて、その直後に、「急に愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」、ってなるかというと、そこの接続あるいは飛躍っていうのは、心によってつながっているじゃない? 言葉じゃなくて、そういうことは分かるんだよ。たぶん、人間は人間のことを、言葉がどんなに不備であっても、すべて分かる。その人間のいってることが本当かどうかとか、そういうことは。こういう本(『うたう』)一冊読んでみて、誰の心が本当に燃えていて、ほんとうのことを言っているのかなんてことは、絶対にごまかせない。分かるよね? 言っていること。

Q:ああ、分かります。

穂村:恐ろしいほどそうじゃない? で、それはいいことだと思う。そこで、自分の心の燃え方が人に負けることは、決して最悪のことじゃない、と今は思う。僕は同学年なんですよ、甲本ヒロトと。だから僕はそのときに、同じ歳にこんなに恐ろしい天才がいたんだって。当時僕は、マガジンハウスの雑誌を全部読んでいて、しかも全部っていうのは、オリーブとかもだよ。そこへもってきて、リンダリンダでいきなり。最初聞いたとき、これはなんか恐ろしいことが……と。あの筋肉少女帯の大槻ケンヂがね、コンビニで立ち読みしていたら、「リンダリンダ」だったか「人にやさしく」だったかが、いきなり流れて、これはいけないと思ってすぐに逃げようとしたけど、逃げられなくて。それで、なぜいけないと思ったかというと、それを聴いてしまったら、自分はもう音楽はできなくなる。この世にモーツアルトがいるってことを知ったって、彼は言っていて、自分はサリエリだっていうことを知らされたって。馬鹿みたいだけど、すごく言っていることは分かって。だって、草野正宗だってそうでしょ。自分の根っこはブルーハーツだって言ってるじゃない。彼は、メロディーメーカーであり、歌詞だってすごいハイレベルでしょ。しかも歌がうまい。すべてそろってる。ある意味で完璧な能力をもった人だよね。でも最高のものっていうのは、そういう蜘蛛の巣グラフとは限らないってことを、ブルーハーツは恐ろしいほど感じさせた。だってさ、歌詞むちゃくちゃだし、メロディーメーカーともあんまり言えないよね。ヒロトは。ま、歌はうまいけど。でもそういう問題じゃなくて、見た瞬間に、あいつの後のステージにたって、おまえの歌を歌えって言われたら、すいません、できませんって、思うじゃない。だって魂が負けてるのが分かるから。

で、話が長くなって悪いけど、あの清志郎、僕はすごく好きだったんだけど、清志郎てほら、背低くて、かっこ悪いでしょ。サルみたいな顔で、声も甲高くてぜんぜんいい声じゃなくて、大してメロディーメーカーでもないよね。そんなにメロディアスな曲はない。でも、魂だけで、人を圧倒したじゃない。ただ僕たちは、すごく憧れて尊敬したけど、清志郎さんって感じで。でもなんていうか彼はやっぱり、すごく孤高の天才って感じがしたよね。たった一人の吟遊詩人って感じがしたから、ああいう風にはなれないんだっていう風に思えたんだ。思ってしまったというべきか。

でもヒロト見たときに、ある恐怖とともに、感動を感じたのは、原理的には、万人がこうなれるんだってことを、思い知らされたっていう。それはもう、ヒロトは天才だけど、清志郎みたいに切断感はなかった。。自分とヒロトの差が、ただ魂の差だっていう風に思ったわけ。本当にミュージシャンじゃなくてよかったと思いました、僕は。歌えなくなるよ。あんなの聴いたら。って僕は思った。その後もいろんなバンドが出ているから、皆が皆そういうわけじゃないけど。でもだから逆に言うと、ビートたけしとか、スピッツのボーカリストとか、そういう人たちがブルーハーツを賞賛したけど、そういうのは、当然だと思ったし、それは絶対そうにしか見えないし。それくらい衝撃だったな、80年代には。だから僕はブルーハーツと大島弓子の人なんです。

Q:短歌に出会ったのが、林あまりだっておっしゃっているのを、読んだんですが、ブルーハーツとの出会いっていうのとは、違うんですか。

穂村:まずね、何かやりたいってことをずっと、書いたとおり何だけど、短爆に。つまり自分は素晴らしいって思ってるわけじゃない。根拠ないけど。何もやったことないけど。素晴らしくないなら、俺は死んじゃうよ、と思ってるわけ。そういう風でしょ、若い人間は。

Q:そうですよ。(笑)

穂村:素晴らしくないのに生きていたくないよね。素晴らしいに決ってる。何の能力もいまだかつて自分の中にあったって確信はないけど、素晴らしいと思っている。極端なこと言えば、何でもいいわけ。素晴らしさの発覚なんていうものは。で探して探して探し回るけど、皆さんもそうだと思うけど、現代の日本で、普通の家庭に生まれて育ったっていう、そんな飢餓感や、突出した能力なんて、身につかないですよ。昔の、宮沢賢治みたいにはなれないわけよ、今の人は。

だけど、何者かでありたいっていう気持ちがまずあって、そこで(林)あまりさんのあれをみた瞬間に、あ、これは俺できるって、すごい思った。そういうことがあったな。だからあまりさんも、すごく心だけで押してくるタイプで、言語感覚が鋭いわけじゃないし、短歌勘が鋭いわけじゃなくて、なんていうか彼女は僕と違って、愛があるから、愛で押してくるわけ。で、そういうのを見つけたっていう衝撃だった。だからその時は、自分が一方的に受けてっていう意識じゃなくて、これで瞬間に、自分も世界に対して、何か表現する側にまわれるって。

Q:新しい歌集についてお話よろしいでしょうか。

穂村:あ、はい今やってます。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』というタイトルです。。

Q:それはどういう角度からどういうような衝撃を与えるようなものになるのでしょう。

穂村:わからない。衝撃を与えるようなものになればいいよね。本当に分からないんですよ。つまりその、どうなるのかっていうことは。ただ、もうそれしかできないからっていう……。短爆もそうで、それしかできなかったんですよ。結局ね。それしかできないときに何を考えるかっていうと、それしかできないっていうことに全部を出そうっていうことしかできなくて、それでダメだったときはあきらめがつくようにだけはしたい。つまり、結果から逆算してこの方がいいのではと、いろいろ考えてやって失敗したら泣くに泣けないから、とにかくこれしかできないという方にね。だから、原爆のときと同じように、広島に行ったときに、他のものもいっぱい歌ったってよかったんだけど、僕は意外とそんな風に思えなくて、原爆に、行って自分が敗退したら、自分の言葉が負けたら、それはもうあきらめがつく。っていうね。ほとんどどうなるか分からない。

Q:かばんについて聞いてみたいんですけど、朗読会に行ったりして、あの、短歌誌について読んでいても、「かばん調」という言葉であるとか、ちょっとしたウエーブというか、特異な動きになってますよね。かばんの短歌っていうのも、ある種の統一性があるように見えまして、それで、そういうものは、穂村さんはその中心的なところにいると思うんですが、どういう風に見ていらっしゃるのでしょうか?

穂村:そうですね、かばんの作品をどうとらえるかということなんだけども、皆さんお読みになったことがあると思いますが、そういう作風っていうのは、まず従来の、いわゆる短歌的な連続性っていう物からはかなり切れてるっていう感じが一つあるよね。でも、じゃああれがごく普通の人の言葉の使い方っていうと、そうじゃないよね。あれは、ある意味で非常にマニアックというのか、えー、文学的といってもいいんじゃないかと僕は思うんですけど、かなり文学的な人間じゃないと、あれに反応しないような言葉の使い方を実はしていて、ふつうの兄ちゃんや姉ちゃんには、意外と分かりにくい。文学マニア、詩をやってるとか、他のものをやってるとか、そういう人にとって初めて成立するものなんじゃないか、と漠然と思う。

あとは、かばん的といっても、やっぱりその都度の変化みたいなものはすごくあって、外から見るとそれはそんなには感じられないだろうけども、確かにある時期までは僕みたいな歌い方がかばんで一般的だった。でも、その後、より体感的な言葉、東(直子)さんみたいな言葉、つまり東さんの言葉っていうのは、イメージじゃないよね。イメージじゃないっていうか、単なるイメージではない。僕が昔使っていたのは、かなり単なるイメージに近くて、単なるイメージをものすごいスピードで振り回したり、ぶつけたり、若さの内圧によって、ものすごくそういう実感に近いものをそこに付加していたんだと思う。東さんは、イメージの裏側に必ず実体があるよね。これは加藤治郎もおなじだけど。その意味では、広く捉えれば、短歌的リアリズムの延長上にあると思う。かばんの女性の歌っていうのは、実はあれはすべて実感のあるものなんじゃないかな、って。

後はなんと言えばいいのか分からなくて、ここ一年くらいのことで言うと、インターネットから入ってきた人がものすごく多くて。かばんっていうのは60何人いるんだと思うけど、ここ一、二年で入ってきた人が半分くらいなんですよ。そうするともはや全然今変わっていて、ちょっとどう見ているのかといわれてもうまく答えられない。

ただ、例えばかばんっていうのはさ、短歌論とか歌人論なんてのは載らないわけよ。要するに興味ないわけよ。昔の人になんて。それで成立するのかなあ? っていうのはちょっと思う。ま、僕も散々そういうことを言われてきたわけだけど。ただ、そういうことを離れて言えば、かばんっていうのは、非常にいい集団ですね。というのは、マイノリティに対する優しさがものすごくある。みんな社会的にうまくいかないところを抱えた人間ばっかりだから、どこの集団にいてもダメで、最後にかばんに流れ着くような人ばっかりで、だから、一種ごみ箱のようなところなんだけど、でもパラダイスみたいでもある。しかし宗教的にはならない。そういうバランスは非常にいいんじゃないかな。僕なんかは、人間の資質的には全然中心的ではなくて、例えば僕は全然フェミニスティックな感じなんてないから、かばんの人ってみんなフェミニストなんですよ。僕は割とマッチョだから、不用意な発言なんかして。掲示板とかも、面白いこと書こうとすると、僕は結構マッチョなこと書きがちだから、危険なんですね。あの集団は、非常にフェアなところなんですよ。

Q:体感実感のほうに流れているという話なんですけど、体感実感レベルで歌を考えたときに、人間の身体っていうのは、もちろん実感はそれぞれ少しずつ違うんですけど、大枠ではそれほど大きく変わらないんじゃないですか。

穂村:変わらないね。

Q:そう簡単に体感実感のレベルで歌ってて、これから先、進展があるんでしょうか?

穂村:それは、それも面白い質問で、それはね、ないとも言える。ないとも言えるってのはたぶん、茂吉を超えられないだろうっていうこと。誰も茂吉のようには書けないだろう。だから、すごく極論を言えば、岡井さんも加藤治郎も、東さんもといっていいか分からないけど、茂吉の中に入ってしまう可能性があるだろうと僕は思う。その意味では、進展がないのかもしれない、とも思う。とも思うけど、じゃあ、茂吉にたてついた者、抗った者は、超空でも塚本でもいいけれども、茂吉に勝てたのかというと、僕はそうは思わない。つまり体感に従おうが、体感に抗おうが、結局のところその、生存に対して、ベタな信仰を持ったものの方がやっぱり強いと思うってのが今の短歌の限界で、それが決定的に僕は嫌なところ。だから自分はそれは何とかしたいっていう気持ちがある。

なぜそれがいやかっていうと、茂吉のすごさっていうのは短歌やってる人なら誰でもわかるけど、でもさ、あれを日本を代表とする詩人、日本固有の詩形である短歌の代表的な詩人であるって、言いたくない所があるでしょう。なぜかというと、彼は戦争だって全然、その、戦争について予言できなかった、見通せなかったわけだし、本当の詩人なら、そういうものは見抜けなくちゃおかしい。っていう気持ちがあるじゃない。あとやっぱりただのすごい田舎のオヤジじゃないかみたいな。それでもいいよ素晴らしい誇り高い田舎のオヤジなら。でも悪い意味での田舎のオヤジみたいなところがすごくあるじゃない。それが歌に力を与えてしまうということが非常に疑問で。

だから紫苑さんともよく喋るけど、もしかしたら短歌っていうのは、その、近代の手前のところでもう終わっていて、それ以降はもう別物になっていて、その別物のチャンピオンが茂吉だ、っていうようなことは十分ありえる。近代的自我っていうものをベースにしたときは、あれを超えられない。だから、それもあって僕は和歌に関心がある。茂吉に負けるの嫌でしょう? 負けるって言ったって向こうは死んでるのにさあ。死んでる者に押しつぶされるのなんて嫌なわけで、だったらそれはここ百年のことだから、人麻呂はどうだったんだろうとか、定家はどうだとか式子内親王はどうだったとか、そっちになにか茂吉を超えられるものがあるんじゃないかという。でもそういう最高レベルの話に行かなければ、身体的な実感を伴っている歌ってすごく強いよ。あの、互選会なんかで票を入れあったりするとすごく分かると思うけど、東さんなんかと一緒に互選会なんかやったら俺、勝率2割ぐらいだもん。

Q:穂村さんの世代から、さらに若い世代っていうのもいると思うんですけど、『うたう』にしてもいろんな人を見られたと思うんですが、今の体感の話にしても、どっちの方向に向かっているとお考えですか?

穂村:正直言ってよく分からない。どうなっていくのか。分からないのは当然だって思うんだよね。だって僕らが10何年前、僕らの同世代で何が起きていたっていうのがよくわからなくて、あああれはこうか、って思ったのは一昨年くらいだもん。「<わがまま>について」、っていうので一応まとめたの。それまで君らは何、何、って散々言われてて、誰も答えられなくて、俺たちって何? ってさまよってて、だって俺と紫苑さんと辰巳泰子と紀野恵と林あまりと加藤治郎と、何の関係があるのかっていうと何の関係もない。全く関係がない。と思ってたけど、実はキーワードがあって、「みんな<わがまま>だよね」、っていうことで。『うたう』をやって、何が特徴だったかって言われても、正直言って分からない。自分たちのときほど突出して<わがまま>ではないっていうことは分かる。だけどつかみどころはない。としか言いようがない。何が起きているのかわからない。どう? どう感じていますか? 皆さん。

Q:『うたう』を見て、後ろの対談がありましたよね。

一周回った修辞であるとか、あの感じっていうのはすごい分かるんですよ。一周回さないとダメだよね。っていうのは。

穂村:半周つまり180度のところって僕たちがやってたところだから。本来表があるのに、わざわざ完全に裏まで行って短歌を書くっていう。でも今はさらに回って一周している。でもそれが一周回る前の単なる体感の表現と違うのか同じなのか。違うとすれば、そこでアドバンテージを主張できる違いってのは、実際問題何かとか、そういうのはまだ検討の余地があるんじゃないかな。

Q:それで、自分のことで言うと一周回してやりたいなっていうのがあるんですが、それだと負ける相手がいるのも事実で。また、短歌やってる人がみんなこっちに行くかっていうとそんな気もやっぱりしないんですよ。

穂村:だから、まさにそこで「棒立ちのポエジー」って書いた天然の人と、短歌を明らかによく知っていてわざと一周回した人と、わりとくっきり分かれたよね。それは見れば分かる。でもやっぱり知らないほうに進んでもしょうがないと思うね。結局その短歌のことを徹底的に考え抜く方向に、行くしかないんであって、いくら短歌を知らない人が書いたものが新鮮であっても、それはもうしょうがないことよ。なんていうか、どんどん知っていくしかないだろうと思う。

Q:『うたう』ではびびらずに短歌作ってる人が多かったですか?

穂村:『うたう』はさあ、若者と素人が圧倒的に多かったからびびってないよそりゃ。若者と素人はびびらないもん。かばんなんかでも、あの賞の上のほうに来たのはわりとキャリアの浅い人で、いわゆるかばんで中堅とかかなり長くやってる人は今回はうまくいってなかったね。やっぱりびびらないってのはすごく大事で、かといって思考停止してる奴もやっぱりだめなんだ。世界観とかそういうものとの連続性がなくて、短歌はただ短歌だからって思ってる人は、結局ダメ。必ずそれは詩なんだから、生の根源的な意味とかそういうものと結びついてるに決まってるんだから、バドミントンがうまいみたいに短歌がうまいなんてことがあってはいけない。あるけどね、実際。でもそれはあってはいけないと思う。だから、短歌には限らないけど、素晴らしい歌をかく人は素晴らしい人であってほしいっていうのはすごくあって。逆はいいんだよ、素晴らしい人の歌がつまんなくても。まあそれはそういうこともあるかなあと思うけど、でも、短歌がすごくよくて、全然尊敬できない人間っていうのはほんとに嫌なもんで、耐えがたい。

Q:穂村さんは『うたう』の審査員をやられたりとか若い世代の人を見てみるであるとか、っていうことをやられてますよね。穂村さんの中には、たとえば自分の作品だけ頂点にいけばいいっていう考えもあるとおもうんですけど、若い人を見つけてみようという姿勢もありますよね。

穂村:それはね、全然別なことじゃないんだよ、自分さえ頂点にいければいいって僕はおもうけれども、そうおもったとき、否応なく、そのつど自分がこれは輝いてるって思ってしまったものはそれが輝いているっていうことを、なんかの形で示していかないと、頂点にいけないんだよね、だってさあ、ぼくは割と素朴な考えだから、もっとも素晴らしい心をもったものが頂点に行くとおもってるから、頂点への最短距離っていうのは、言語感覚何かじゃ全然保証されるもんじゃなくて、いかに、希求の純度が高いかとかそういうことだから。

もちろん自分が最高であればいいんだけど、花見の場所取りみたいにそんなことができるわけない。逆に言うと言語感覚なんかなくたってそれさえあれば、全然平気とも言える。まあ、すべてあるのがいいんだけど、愛がないっていうのが自分のコンプレックスっていうか、そういう感じがする。なんかやっぱり本能的にこれはすごいとか今までなかったというか、自分にはないって思うものは、そこでそれをわざと見ないことにしようってやると、自分自身がやっぱり頂点へのステップを後退させられる感じがする。だからね、意外と綺麗事っていうのは有効だと思う。

僕は常に綺麗事を言い張るタイプだけど、それは損得で言っても一番得なのよ、綺麗事を言い張るっていうのは。あと一番リアルだと思う。世の中は意外と汚いことがあるとか、そういうのは僕は実はリアルだとは思わない。魂の純度が大事だとか、極端に綺麗なことっていうのは当たってるんだよね、現実的に。だからリアルなんだよ実は。みんながそう思わないのは、現実の生活でいろいろ痛めつけられてたりして、そういう感覚を忘れちゃうからで、だからそういう感覚を何か特殊な思考によって保持している人間っていうのは、強いです。水原紫苑なんてのはそうです。あの人はちょっと頭が特別だから、魂が如何に大事かっていうことを語って語ってやまないでしょ。その中間がないじゃない。今日食べた納豆から魂までが、もう全然近距離、っていうか繋がってるじゃない。それが彼女の強み。梅干しの種と星が繋がる。もちろん弱点はある。一義的にはそれは強みで、だからどんなに彼女の歌が、語彙がインフレだとか、あまりにも美的であり過ぎるとかいう批判を受けても、やっぱりその批判によって彼女を完全に無化することはできない。だから、綺麗事はすごく大事だなっていう感じがする。あとは、欲望の直視かな。自分の欲望の直視。言わなくてもいいんだよ。言わなくてもいいけど、欲望が直視できないと、人間はすごく暗いところに行っちゃうと思うな。

Q:穂村さんの短歌のなかに、永遠的なものを歌ったものがあったと思うんですけど。

穂村:あるよ。愛の絶対性の希求。だって自分は死なないとずっと思っていて、あの、そういう……。

Q:希求というか、憧れみたいなものなんですか?

穂村:憧れっていうのかなあ。だってさあ、最高に楽しい状態が永遠に続けばいいって思うでしょう? それと取替えにできるものっていうのはさ、何ていうか、うまく言えないけどあんまないよ。それこそ欲望の直視でさ、僕は最高に楽しいときが永遠に続けばいいっていうところから、自分の欲望をなかなか下げられない。だからものすごく子供みたいにそれを言い張る。ただ言い張って誰も聞いてくれないから、外面的にはロジカルになるとか、対人的には僕はかなり滑らかな対応だと思うけど、そういうところはいくらでも譲れるわけ。でも、その根本的な欲望だけは譲りたくない。

Q:もう一つ聞いておきたいのは、穂村さんのおっしゃる愛っていうのは、もともとあっていつかなくなったものなんですか? 昔に。それとも初めっからないんですか。

穂村:個人的には初めからなかった。世界にとっては……。それに答えるほどの才能が僕にあればねえ(笑)。そういうのはさ、釈超空とか、そういう人が分かるんだろうね。僕ははっきり言って分からないな、そういうのは。ただ、でも僕にこれは絶対確かだっていうレベルで言えることがあって、それはね、ちょっと図を……。(図を参照)

これもいずれ歌論にしたいと思うんだけど、多分こういう生命っていうもの(A)が、根源的にはあったと思う、あると思う。でもそれが、こういう風に、(矢印)なっている。これが例えば、これ僕、これキミ。でこれがいわゆる身体ですね。この外観っていうのは。身体って言っても厳密に言うと免疫機能なのかとか、いろいろあるけど、いわゆる身体だよね。で、この中に、命がある。これがだから誕生でしょ。誕生。だから僕は誕生っていうのは無から有の発生だとは思わないね。無名性の大いなる有が初めからあったものが、ただパンみたいなもんでさ。パンのでっかいのからこうちぎって、はい誕生おめでとう、って。ただ僕らの立場っていうのは、それを見える視点にはないから。何でかって言うと、このなかにずっと初めから、0歳から生きてるでしょ。ってことは僕にとっては、えっと、これが身体のなかの自分ていうものが、自分。当たり前だよね。自分であると。そうすると、えっと何が発生するかというとですねここで僕が、頼みもしないことが発生してしまう。何かというと、これは、いずれここ(A)に戻らなければいけないというプログラミングを与えられている。これ何かというと、死。分かります?

もちろんこれは死のプログラミングといってもいいし、身体を与えられたことといってもいいけど、ここにひとつの目的というものが否応なく発生してしまう。それは、『うたう』でも書いたけど、「生き延びる」。これはさ、別に僕たちが選んだ目的じゃない。だけど、僕も君もみんなこの目的をインプットされてるでしょ。分かるよね? 何でそんなことをわざわざするのか? まあ、ここに仮に神がいるとして。このままでいいじゃん、何でわざわざ一切れだけちぎってもう一回誕生させるのか。しかもどうせ死ぬのに。これ「どうせ死ぬ」でしょ、いつか。死ぬのに、なんでこんなことをするのか。しかも生き延びるという目的を与える。

そうするとさ、そこに絶対にこのシステムからだけでもなくてはいけないものがあって、それは、「意味」がなくちゃいけない。耐えられないでしょ、だって。これが、無意味だっていうことにね。ここには絶対、意味がなくちゃいけない。で、この意味の追求っていうのが当然ここに発生すると、これはさあ、「生きる」、っていうことだよね、多分、僕にとっては。で、「生き延びる」ことと「生きる」ことは、実は、完全にオーバーラップしている。生き延びないで生きることなんてできないから。でも外部のファクターが、いろいろな社会的な要請とか、大人であることとか、生き延びることをすごく僕たちに要求するじゃない。結婚しろとかさ、就職しろとかさ。それによって、そもそも意味の追求とか、生きるっていうことの意味というものを、君たちぐらいのときは、ものすごく強く感じているに決まっているよね。ただ目の前にこういうもの(a)が迫っていて嫌な時期でもあるけど。こっち(b)が大事だって言っても、絶対これ(a)をやりつつこれ(b)をやらなければならない、ごく普通のことだよね。端的に言えば、僕は会社に行きながらものを書いてるでしょ?

そういう形で無数のオーバーラップっていうものがあって、意味の追求があって……。意味の追求。僕が最初に言った真善美の「真」の追求ってことだけど、それをやっていくと、ここでどうしても僕にとっては愛っていうものが、他のものと違うものとして浮上してきちゃってね。何でっていうと、この人(図中の僕)にとって特異なものっていうのはさ、当然これ(キミ)だもん。自分と同じ立場にあって、しかも自分ではない「君」……。だってさあ、どんなものでも、あんなにも恋愛がテーマになるっておかしいじゃん。歌謡曲だって何だって。何でみんなそんなに恋愛が好きなんだろ? っていうと、結局はこの構造をみんなが持っているために、何か意味が必要になってきて、その意味っていうのはやっぱりこれと関係している。

だから、おそらく、神のプログラミングの中には、こう来てこう行くまでの間に、つまり生まれて死ぬまでの間に、実にあほのようだけど、愛を見つけなさい、というものがある。なぜならば、このままの状態(A)でできないことっていうのは、唯一つ、愛の追求ではないのか。そういう意味では、この時点(A)で愛っていうものが、じゃあ生命に完全に密着して存在していたのかっていうと、僕はやっぱりそうは思えなくて。つまり神は不完全だ、っていう風に思っていて、神は自分の不完全性を知っていて、何が不完全かっていうと、このような死すべき運命を与えられた有限な者たちが、愛を求めるということの意味は、僕にとっては、神が自分の不完全性を知っていて、何かをやはり託している、というような感じ。これはかなり神をいいものとしてみたような言い方だけど。

一方で僕はよく思うのは、生まれたばかりの子猫の目の中に寄生虫がいるのは何でだとか、生まれたばっかりの赤ちゃんが奇形児だったりするのは何でかとか。何でそんなひどいことをするのか。生まれたての赤ちゃんが餓死するとか、じゃあ何のために、ここ生まれてきて、全然愛の追求もできずに死ぬのはなんでなのか。僕はやっぱり、死んだ赤ちゃんとかは、神に対して何で私はそんな目に合わされたのかって抗議する資格があると思う。何でなのか、僕には全然分からないね、そんな馬鹿なことをするのか。

もっと言うと、非常に奇妙なことが他にもあって、優れた芸術家、表現者っていうのは、みんな早く死ぬね。自殺したり殺されたり、非業の死を遂げたり。詩人は若死の代名詞みたいなもんでしょ。何でなんでしょうか? 愛の追求っていうものを目的として生まれているなら、愛をより鋭く追及できるものはいつまでもこの世に生かしておけばいいだろうに、何でまたすぐここ(A)に返してしまうのか。分からないけど、でも、優れた表現者とか詩人とかミュージシャンとかジョン・レノンが撃ち殺されるとか、あれは僕、絶対意図的だと思うね。だから今、僕がこんな風に喋っていても、僕が生きているのは、僕は多分それほどの表現者じゃないからだと思う。本当に何かをつかみそうになったとしたら、刺客が放たれるんだろう。なんか別のものがいるのかもしれないけど、明らかにあれは殺されていると思う。詩人が若くして死ぬのは、あれは他殺だと思うよ。何か分からないものが殺していると思う。というのが大体の考え方かなあ。

そして、具体的な短歌との関係は、『うたう』のなかの「リアルであるために」という評論を見てほしいけど、そのへんの関係性でいうと、僕らが普段使っている言語っていうのは、当然この社会性とかコミュニケーションとかを生き延びるための合目的性を帯びているから、純粋に生きるための言葉じゃない。というか純粋に生きるための言葉なんてない。5W1Hなんていうのは、生き延びるためのものでしょう?

いつどこで誰が何を、とか。これは必ず(a)を強化する。で、(b)に行くことは、(a)から遠ざかることだから、単純に言って死に近づくこと。ま、結局そういうことなのでしょうね、優れた表現者は(a)を否定して(b)に近づいちゃうから。でも(a)を全否定して(b)に近づくなんてできないから。このシステムからしたら。そんなにも(b)に近づいたらもう(A)に行っちゃう。極限まで生き延びることを否定して輝こうとしたらもう死んじゃう。

だからさ、芸能人とかアイドル歌手とかがさ、自殺するとさ、俺のなかでは、3ランクぐらいアップするね、その人の評価。自殺した人はみんな偉いっていうすごい短絡的な考え方。だって、みんな無意識のうちにそう思うでしょ。すごく、あほな芸能人だなって思ってた奴が、なんかで自殺すると、ただあほなだけじゃなかったんだなって絶対思うじゃない。それくらい何か特殊なものがある。僕の考え方はきわめて単純化した短絡的なものだけど。でも、僕にとってはこれは合っていると思うし、その、ここに短歌がどうかんでくるのかとか、言語ってもんがどうかんでくるのかっていうのはこのモデルに従って考えていくことになる。

だから、こうやって、一切れのパンにちぎられているのに、私っていうものが、近代的な意味での私っていうものが、発生しなかった時代があるっていうのが僕にはもう理解できないから、それが和歌を理解できないことと同じことなのかと思う。だってこれが発生したのがつい最近だっていうんでしょ。近代以降だっていうんでしょ、近代的自我は。不思議じゃない? だってみんな体を持って生まれてきて、自分が殴られれば痛いけど、他人が殴られても全然痛くないんだから、ああ俺とあなたは違うんだな、って思うじゃん。そしたらそこからすべてのことが始まって、自分がいい目を見たいとか、自己保全本能であるとか、そういうのがすごくあると思う。だから、愛がそもそもあったものか、っていうのは僕には分からないけど、でも僕たちはその愛を求めるためにこの世に生まれてきたんだよね。

こういう風に喋っていると、僕も紫苑さんも基本的にどうタイプの人間だっていうことが分かると思う。彼女はそんな風に考える人間ではないけれどももっと、細胞レベルでそういう感覚が入っているんです。だから、なんというのかな、あと、皆さんもそうだと思うけど若い人間ていうのはすごくこういう(b)レベルで生きるじゃない。これから苦しいことがいろいろあると、ここから遠ざかるんですよ。そうすると、僕や紫苑さんの敵ではなくなるから。ここにずっと居続けるっていうのは何か特殊な事情があるからっていう場合がある。戦争で青春を奪われたとかさ、そうすると、そのあとどんなに偉くなっても、何で俺の青春は戦争で取られたんだみたいなことから一生離れられない。

Q:質問が離れるのですが、青春の歌が必ずしも優れているものとは思えないのですが? 若いときに作ったから素晴らしいのか、という疑問を持っていて、与謝野晶子は、後になって若い頃に作った『みだれ髪』をすごく否定していますよね?自分の歌と思いたくないとまでいっていて……。

穂村:それは、まず言えることは、あの否定の仕方は感動的だっていうことですよね。画家でもキリコっていう画家がいてさあ。あの人も、いわゆる僕らがイメージする幻想的なキリコの絵っていうのを、彼は本当にあれを美術館に忍び込んで捨てようとしたことがあるくらい否定している。けどそれはすごい感動的なことだと思う。ただし、青春っていうのは、そういう風に個人の念の込め方とは別に、自然にこもりますよね。そのことを言ったんです。追い風であるとかは。だから、青春歌がいいっていうのはどこかでそれは無名性に繋がっていて、そのことって万人にとって意味を持っているじゃないですか。誰もが無名のところから生まれて、無名のところに帰っていくのだから。だから、青春歌がすべて素晴らしいかといえば、今言ったような文脈ではすべて素晴らしいということも言える。

でも70歳から歌を始めた人に活路がないかっていうとそんなことはなくて、僕は基本的に、念というか、愛の希求万能説だから。例えば、無人島に男と女が一人ずつしか残されなかった場合、その二人が恋愛関係になったとき、二人がまず考えることとしては、俺たちって二人しか残らなかったから恋に落ちただけで、本当の恋じゃないんじゃないか、って思う可能性が十分ある。僕はそれは本当の恋だと思う。あるいはこういうのがある。二人とも洗脳されている。催眠術で恋に落ちるようにインプットされている。それで、洗脳されているから恋に落ちた場合それが本当の恋じゃないかっていうと、それでも本当の恋でありうる。僕はそいう立場なんです。だからどのような物理的な状況も、心を完全に封じ込めることはできない。と思います。

お坊さんの雪舟が、絵ばっかり書くから叱られて縄で縛られたら、ねずみがちゅうちゅういうのが怖くて、泣いて、その涙で足の指でねずみの絵を書いたらお坊さんがそれを見てあまりにそのねずみがうまく描けていたので絵を描くのを認めたとか、そういう話が大好きです。何でかって言うとそれは現実っていうものをその人の心が凌駕したわけですよね。縛られてねずみしか描くものがなくて涙しか描くものがなくてしかも足の指で描かなくちゃいけなくて、でもなおかつ問題を解いたわけだよ。

だから、僕は、変な話だけど『スラムダンク』もすごい好きです。仙道ってライバルがいて、花道っていう主人公がいる。で、終了まであと一秒っていうところで、この花道が、シュートを入れて、4点差になったんですよ。次の瞬間、全く喜ばずに、そのことを、「戻れ!センドーが来るぞ!」って叫ぶわけ。でも、残り時間は1秒。1秒に4点は絶対に入らない。3ポイントシュート入れても3点しか入らない。絶対逆転はできないんですよ。ふつうだったら、その瞬間に勝利が決まるから、喜んでもいいはずなのに、花道は全く喜ばない。その、残り一秒のために、「戻れ、センドーが来るぞ!」と次の攻撃に警戒するんですよ。僕はそれにすごい感動して、これはもう愛だなって思いました。その愛の意味は何かっていったら、一秒しかないのに、その4点を、仙道が返しうるって信じていることです。多分仙道本人もそれはできないと思っているよね。でも、主人公の桜木花道はその一秒で仙道が4点入れる可能性がまだ残っているって全身で確信しているから喜ばないんですよ。「戻れ!」と、その最後の一秒で叫ぶ。僕はそこで涙が流れてしまって、なんというか、そこでは一秒間にできることっていうのが、無限に拡大しているんですよね。つまり物理的にっていうことを、完全に心のテンションが凌駕している。もちろん逆転できなかったんですよ。

葛原の歌も一度も会いの成就に成功しないですよね。愛を求めて、毎回破れる。でも、次のページをどうしてもめくってしまうのは、「次にその愛が成就するのかも?」って読者に思わせるからだよ。なぜ思わせるかって言うと、葛原もこれ(図のB)で、僕もこれ(B)だから。ここのポジションでしか、生を生きていないから。ここ(B)に入るもの、無限のドライブ感っていうのは絶対的に、説得されざるを得ない。だって考えてみれば、すべてが恣意的でしょう。バスケットボールなんていうのは、全然必然性のあるゲームではないし、たまたま、バスケっていうルールがあるだけで。サッカーでもそうだけど、誰もいないサッカーのゴールに、ボールを蹴りこむなんて誰でもできる。だけど、それは誰にとっても何の意味もなくて、ワールドカップの、決勝戦の、延長戦の、最後の瞬間に奇跡的なゴールを決めたら世界中が沸騰するわけだよね。でも現象としたら、誰もいない放課後のゴールに、ぽんと蹴って入れたのと同じこと。だけど、その瞬間、すべての意味がもう消失しているでしょう。

何が言いたいかって言うと、無人島で二人しか残らないからその愛情がにせものかも知れないっていうことを、僕は受け入れられないのは、そんなこといったらバスケなんていうゲームはただ恣意的なゲームではないか、身長が5メートルの人間が5人いたら絶対負けないじゃないかとか、いくらでもそういうことはあり得るけど、でもそうじゃないと思うんです。やっぱりこの一秒ってものに、すべての恣意性を超えて、「戻れ、センドーが来るぞ!」と叫ぶ。これは愛だと思う。で、それができるのは、ここ(B)にいる人間だけでしょう。この中(A)にいたらさ、バスケなんてないわけだから。敢えて言えば、一秒で現に4点でも100点でも1000点でも入れられる世界だよね、ここ(A)は。なぜ一秒に4点は絶対入れられなくなっちゃったかというと僕たちはここ(B)にしか居ないからでしょ。生まれてきてしまったから。一秒でできることは限られてしまう。だけどそこで夢見ること。(それはできる。)

今言ったようなことは、実は万人が分かっていることで、『スラムダンク』読んでる人は、実はそのところ全体を分かっていると思う。そこで、主人公に全然喜びが生まれないことは、僕は感動的だと思うし、そういうことは読者は必ず分かると思う。だから短歌で必ずしもそういう風に分かってもらえないことがかなしいわけです。『スラムダンク』だったら中学生が、電車の中で読んでも、必ずこれが効いてるはずですよね。こういう風に言語化する奴はいないだろうけど。でも今言ったことは、伝える自信はある。僕は中学生の男の子に、なぜここで「戻れ、センドーが来るぞ!」というのがこんなにも感動的かっていうことを。でも、短歌そのものを見せて、なかなかそういう風に伝えるのは難しいんじゃないか。だから、そういうことはしつこく言っていこうかなと思います。

今僕が言ったようなことは、このレベルで語っていても、単なる妄想と区別つかないのだけど、具体的な証拠がある場合単なる妄想ではないと自分にも他人にも確信させることができるでしょうでしょう。感動的な短歌を書けるとか、あるいは誰も読めないような感動的な読みができるとか。それは、証拠だから。

それで僕は自分も可能なら、非限定的な表現に近いほう、例えばミュージシャンであるとか、あるいは宗教家、イエス・キリストであるとか、あるいはニーチェみたいな哲学者であるとか、非限定的な存在でありたかったと思うけれども、やっぱりそんな能力はなかった。自分にできるものっていうのは短歌だったんですよ。それは、花道がバスケだったように。ある意味では全然恣意的だけど、でも、少なくても僕は恣意的だからといって思考停止しているとは思わないし、「何であなたは短歌なんですか?」って僕に向かって言ってくる奴こそ「おまえこそなんで短歌なんだ」っていう感じがするんです。ただ大いなるものへの親和性とかだったら、僕は全然納得できないなあ。いつも君たちの先生(水原紫苑さん)とけんかになるんです。すごく宗教的で超越的なことを連続的に言っているように見えるけど、実は本当の意味で超越的なものは全然信じることができない。僕はこういうフレームでない美という概念、超越的なものを認められない性格なんですよ。だから「美」と言われても、じゃ美って何? この真と無関係に美があるんだったら、俺たちの生きる意味ってどうなっちゃうの? って思うじゃないですか。でもあるんだって、美っていうのは。

Q:この説で行くと、絶対、愛に出会えるはずですよね。

穂村:はずよ、はず。はずっていうことが前提になるよね。でも実際に出会えるかどうかっていうのは分からない。つまり仙道は来るはず、という。

Q:それと、愛の希求の絶対性っていうのは…。

穂村:僕については両立するよ。だって、その希求の絶対性っていうのは、その希求の絶対性っていうのは、来るはずのはずのことだから。来たことないもの、これまで。

Q:まだ来てないんですか?

穂村:来たらいったいどうなるのか、見当がつかないねえ、僕は。現実的に、すごく安易な充足を僕はもたらされたとしたら、ものなんて書かなくなるだろうね。だから、実際の現実の恋愛の場面では散々こう楽しくべたべたしておいて、でもう書くものにおいては飢餓感を保持できるのかどうかっていうのは、せこい話だけど、僕は半信半疑かな。

Q:では、ものを書くよりも、やっぱり愛ですか?

穂村:順番から言うと、そうなるんじゃない? 僕は、そういう風に思おうとしてるけど。まあ、僕はあまりにも頭が図式的っていうかさ、すごく短絡的だから、そういう風に割と思いたいわけです。もっとあいまいだとか言われても困るんです。じゃあどうやって生きていけばいいのって。

Q:真っていうのは、一般に超越概念ですよね?

穂村:ああ……、でも、その一般っていうのは、本当に生き延びる世界の話でしょ。ほとんど社会的っていうような、世間的というようなレベル。これを抽象的だとか超越的だとかいうとそうかもしれないけど、でもぜんぜん超越的でも何もないじゃない。敢えてそれがおかしいとすれば、一秒に4点は物理的に入らないということがポイントだけど、物理的根拠なんてあいまいなわけですよね。だから僕は、ちょっと話がずれるけど、よくプロ根性とかいうけれど、プロっていう概念がよくわからかない。それがお金に結びついているっていうことはよく分かるけど。でもお金っていうのは便宜的なものでしょう。プロという概念は、よく理解できないなあ。

まあ、実際にはどういうレベルでこういう事を感知するかっていうのは本当に人のタイプがあると思います。例えば加藤治郎なんていうのは、ほとんど首から下でこういうことを感知している感じがするし、東さんなんて、手首から先で感知している。でも僕は割と、頭でしか感知しない。身体はほとんど何も感じない。こういうフレームが全然分からないっていう表現者っていうのはないんじゃないかなあ。今まで会ってきた人も、どこかでそれは受容してもらえる感じがしたけどな。

Q:世界はいいものだけではできていない、とか悪意についてはどうですか?

穂村:それは、割と直感的に分かるでしょう。特に、ある程度感覚の鋭い人、ある年齢以下の若い者にはそんなことは自明なのであって。僕の言っているのは、いいこともあれば悪いことがあるのが世界だよとか全然そんなことではなくて。例えば葛原の歌なんか、すべて悪意だっていう見方はできますよね。短爆に書いたように。だってイエス・キリストとか、若者とか、白鳥とか、そういう美しいものを、全部負の存在に例えているじゃないですか。赤ちゃんなんて、さなぎみたいだとかさ。とにかくどんな綺麗ないいものも、必ず負のところを強引に見つけてネガティヴだって言うわけですよね。

何でそんなこと言わなくちゃいけないのか。理由は一つだけで、それは、試したいわけですよ。その素晴らしさが、どれくらい本当に永遠で完全なものか。その試し方が並外れていますよね。なぜって、葛原妙子は、その美しさや永遠を求める気持ちがあまりにも強いために、現実のどのようなものを見ても、必ず汚いものに見える。つまり、本当の白鳥はもっと綺麗だという感じが常にあるのだと思う。愛を見たら、本当の愛はもっと、と。それが際限がないために、その落差が反転した形で負性を帯びる。だから、それは全然悪意じゃなくて、さっきも言ったけど、愛の希求の絶対性っていうのは、結局は愛の絶望に等しくなる。愛の希求の不可能性を証明することの連続でしょう。そういう意味で、それが悪意に見えたとしても、決して単なる悪意ではない。だからなぜすべての幻視やビジョンが、必ずそのネガティヴな死の影を引きずるのかと言うと、一つにはそれがあると思います。

もう一つはさっき言ったように、詩的に、正しい方向に行こうとすれば、必ず生き延びることの呪縛が発生して、そのためにそれを断ち切ろうというドライブ感が絶対発生しますよね。それは世間的一般的に善と言われているようなものとは相容れない。モラルだとか法律だとか。だって、そういうことは生まれたからみんなでうまくやろうっていうことが前提になった強制力なんだから。そういうものとは当然相容れない。だからそれは悪意に見える。

例えば東さんだって、自分の子供は愛すべき存在なのに、魚の匂いだとか言う。葛原は、自分の旦那を変なもののように冷たく見ているし、孫を見ていてもすごい冷たい目なんです。本来愛すべきものであるはずなのに、なぜそんなにつめたいのか。それは愛すべきっていう根拠がせいぜい社会的次元でしかなくて、彼女たちが求めている愛っていうのは、もっとドライブ感があるものだから。その落差が通常の人間の意識には悪意として映る。塚本邦雄もどうみても、悪意だよね。だから僕たちのころはある時期まで、文学青年みたいな人たちは、その悪意みたいなものしか信じなかった。善とか心っていうものに対する不信感がすごくあった。僕にとってはブルーハーツでびっくりするまで、そういう感じだった。

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