::水原紫苑の『客人』について 宮澤英邦

 水原紫苑の第三歌集『客人』の歌を参照にしつつ、その歌の魅力について考えたいと思う。
 自らが何かに変身していくことが『客人』の歌の主題である。

 みづいろの革手袋のわれなりし チェロなるきみにすがらむとせし
 嬰児期のあなたが月に映るやうなよる夜をかさねてわれはパピルス
 シャンパンを運河にそそぐおこなひのきみとし見えてわれは火の鳥
 羽毛とぶ秋の大気へ恋人を放ちてガラスのピラミッドわれは
夢のきみとうつつのきみが愛しあふはつなつまひるわれは虹の輪

「君」と「われ」の、一対一の関係の、「間」が、歌の核であり、「変身」の起こる場所になっている。次のような歌も、「間」が、歌の核となっている。

まばらなる犬の睫毛のあひ間にふるむらさきの雪リルケは見しや
きさらぎとやよひの境ひとすぢの蛇光りつつたましひ睡る
青空は牢獄なればさくらばなちりてぞ入らむ鉄のあはひに
電車の中の少年少女ひらひらと蛾に変はりけりレールのはざま
馬わらふかす幽かなるこゑエゴイストとエゴイストの永きくちづけのま間に

「雪」や「さくらばな」や「蛾」などが、「間」をはかなくただよう。「間」におけるそのような浮遊感が、作中主体の存在する空間を、夢の世界のような異次元の空間に変えてゆく。「間」とは、水原紫苑の歌にとって、様々な変身のはじまる夢の空間への、入り口なのである。

衣着せて松を抱きしいにしへのあくがれびとの皮膚のうすさよ
死者を抱き白鳥を抱く青年の残雪のごとき皮膚に向かへり
なめらかなる馬のはだへにふれしのち宇宙への旅を夢とおもはず

「皮膚」も肉体と外界の、「間」である。作中主体が、「皮膚」という、「間」に触れたとき夢の空間が、現実の空間を覆いつくして、様々な物語が織り成されはじめる。

美しき駅建てむとし胸坂の傾斜にふれつ 汽車知らぬイエス
わがぬか額にさむき王国立つる者はほととぎす散りしゆふべ夕ほほゑむ
馬車のなき世と知りつつもわが胸の広場馬車通る道空きてゐる

「間」としての「皮膚」が、「胸」や「額」に、「美しい駅」や「王国」を建てることのできる夢の空間となって、いつのまにか我々の前に、現れてくる。

林檎割つていづれに即きしこころとも知らず窓外を巨人通れり
畳のへりがみな起ち上がり讃美歌を高らかにうたふ窓きよき日よ
面影のかすめる硝子切りいだしかの不沈艦の窓にはめつる
窓ふさぐさくらはなびら わたくしはねむらぬゆゑに双つ名もてり
裏窓にたれぞかがやくやさしさは?そよがするわだつみの樹

「皮膚」と同じく「窓」も「間」であり、夢の空間がはじまる場所である。「讃美歌」をうたう「畳」や「不沈艦」や「巨人」のイメージは、「窓」という、「間」から生まれてくる。

誰もゐぬ空中ブランコ止まりたる一瞬若きヨハネを抱けり
カットグラス取り落とさむとし抱きとむる瞬刻きけり亡き犬のこゑ
昼のごとき月夜と聴きてわが母を抱きしめゐたりまぼろしはなし
葉桜のあかきが中にこもりゐる崇徳のみかどわれをいだ抱けよ
朱の雪をおもへり太陽系内は不死とふ人のかうべ頭抱きつつ

「抱く」という行為も「間」に深く関わっている。接触した身体の「間」から「ヨハネ」や「亡き犬」や「祟徳みかど」のイメージが現れてくる。
これまで見てきたように、水原紫苑の生み出すイメージは、「皮膚」や「窓」といった「間」、あるいは「抱く」という行為によってうまれる、「間」という特殊な場所から生成しはじめる。それゆえ、それらのイメージは、もともと、作詠主体の目の前に根拠もなく存在していたのではなく、「間」という場所が歌の核として存在するとき生じてくるイメージなのである。「間」から生み出されるイメージはどれも、夢の世界に現れるイメージのように奇妙であり、時間の存在しない不思議な空間で動きはじめる。「客人」たちは、この「間」から生まれ、かつこの「間」を越えて、作詠主体に向かって、絶え間なく次々と訪れてくる人々である。

全身を紅く塗りたる少女来てわがくるしみを南へ向けぬ
われにはわれの中心あらむと迫り来るあをがさ青傘のをとこ雪をかかげて
大いなる襟き被て死後も歩みくるザビエルなんぢ汝童貞なりや
さびしもよわらひ凍れる眼鏡より未知のエジプト埃及旅行者来たる
耳底なる共和国より昇り来し医師・審問官いづれしゆんぷく春服
海鳴りのやうなるをみなわれに来て帝王の身体は貝なりといふ
城壁の一部と化せしわたくしにみづ運び来る春のイコンは

「客人」の絶え間なき訪れは、作詠主体の自我の変容の起因となり、そのような変容の繰り返しが作詠主体の自我を拡大し、無限化してゆく。拡散してゆく自我が、空無と見紛うまでに希薄になったとき、作詠主体の無意識に存在していたイメージが、前景化する。そしてあらゆるもののイメージは、自律的に動き出し、万華鏡のような世界が、加速度を増しながら、作詠主体の目の前に開けてゆく。
「間」によって可能になる空間が、「客人」の訪れを可能にしている。しかし実は、「客人」だけが意識されているときには、「間」は、見失われていく。水原紫苑の歌の核は、「客人」たちの奇妙なイメージに代表されるような、幻視的なイメージの面白さではなく、そのようなイメージを生み出す、「間」への、鋭く繊細な感受性にあるのかもしれない。彼女の歌の緊張感は、そのような、「間」への感受性にかかっているのだろう。(了)

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